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川越藩 かわごえはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

川越藩
かわごえはん

江戸時代,武蔵国入間 (いるま) 郡川越地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長 14 (1609) 年,先に在封した酒井氏が2万石で入封,のち4万石となり,松平 (大河内) 氏6万石,柳沢氏7万 2000石,秋元氏5万石 (4代,64年間) と続き,明和4 (1767) 年から越前家支流松平氏が 15万石で在封,慶応2 (1866) 年家門松平 (松井) 氏が8万石で入封し,廃藩置県にいたる。

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百科事典マイペディアの解説

川越藩【かわごえはん】

武蔵(むさし)国川越に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩(ただし松平(越前)氏は家門(かもん))。江戸に近い番城として重視され,幕閣重臣が配置され,酒井氏・堀田氏・松平(大河内)氏・柳沢氏・秋元氏・松平(越前)氏・松平(松井)氏と変遷。
→関連項目三富新田政治総裁職野火止用水前橋藩松平信綱松山(埼玉)武蔵国柳沢吉保

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

かわごえはん【川越藩】

江戸時代武蔵(むさし)国入間(いるま)郡川越(現、埼玉県川越市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。ただし、後期の松平氏は越前家分家で親藩(しんぱん)。藩校は博喩堂(はくゆどう)。江戸に近い支城として重視され、幕府重臣が配置された。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国の際、譜代の酒井重忠(しげただ)が1万石で入封(にゅうほう)、立藩した。その後、酒井忠利(ただとし)・忠勝(ただかつ)、堀田正盛(ほったまさもり)に続き、松平信綱(のぶつな)以下3代、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、秋元喬知(あきもとたかとも)以下4代、松平(越前(えちぜん)家)朝矩(とものり)以下7代、松平(松井)康英(やすひで)以下2代の8家21代が、幕末まで2万石から17万石の間で続いた。歴代藩主は武蔵野開発による新田開発、舟運の開設、また養蚕や絹織物の増産などに取り組んだ。1871年(明治4)の廃藩置県で川越県となり、その後、入間(いるま)県、熊谷(くまがや)県を経て、76年埼玉県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

かわごえはん【川越藩】

武蔵国(埼玉県)入間郡川越に藩庁を置いた譜代中藩。ただし後期の松平家は越前家分家の親藩。江戸に近い番城として老中などの重臣が配置された。1590年(天正18)酒井重忠が川越城1万石を領したのが藩の起りである。重忠は城下町の諸役を免除し商人の集住を図ったが,1601年(慶長6)上野国厩橋(まやばし)に移った。09年弟忠利が2万石で入封,検地を実施し,仙波喜多院を復興,三芳野天神社を建立した。忠利没後,嫡男の武蔵国深谷城主で老中忠勝が遺領を合わせ8万石で襲封した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

川越藩
かわごえはん

武蔵(むさし)国入間(いるま)郡川越(埼玉県川越市)を藩庁とした藩。江戸に近い支城として重視され、幕閣重臣が配置された。城主は1590年(天正18)入封の酒井重忠(しげただ)以後、酒井忠利・忠勝、堀田正盛(ほったまさもり)、松平(大河内(おおこうち))信綱(のぶつな)以下3代、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、秋元喬知(たかとも)以下4代、松平(越前(えちぜん)家)朝矩(とものり)以下7代、松平(松井)康英(やすひで)以下2代の8家21代を数える。うち松平朝矩以下7代が越前家分家の家門である以外は譜代(ふだい)大名。
 領分高は酒井重忠の1万石以来増加し、最大は松平(越前家)斉典(なりつね)のとき1831年(天保2)以降の17万石。城付領は4~5万石で、酒井忠利のときその中核が形成された。1638年(寛永15)大火の翌年入封の松平信綱時代、川越城再建拡張、城下町復興と町制整備、新河岸(しんがし)川舟運の開設、荒川治水、慶安(けいあん)総検地、武蔵野開発と野火止(のびどめ)用水開鑿(かいさく)が行われて藩政が確立した。武蔵野は柳沢吉保時代も開発が行われ、三富(さんとめ)新田が成立した。秋元氏時代は養蚕、織物、柿(かき)、いもなどが奨励されたが、藩財政窮乏が深刻となった。松平斉典の藩政改革は御用達(ごようたし)商人横田家を勘定奉行(かんじょうぶぎょう)格とし藩士に半知借上(かしあげ)を実施、副業指導など農村復興にあたったが、1820年(文政3)武州領の一部が相模(さがみ)に替地となり、海防負担は藩財政を圧迫した。1830年川越・出羽庄内(でわしょうない)・越後(えちご)長岡の三方領知替え命令が出されたが、庄内藩農民の反対闘争で撤回され、翌年2万石加増(計17万石)。1867年(慶応3)松平康英が入封。大政奉還、戊辰(ぼしん)戦争に老中を辞し恭順の意を表したが、近江(おうみ)領を没収された。養子康載(やすとし)は版籍奉還し藩知事就任。1871年(明治4)廃藩、川越県、入間県、熊谷県を経て76年埼玉県に編入。[大野瑞男]
『『川越市史 第3巻 近世編』(1983・川越市)』

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世界大百科事典内の川越藩の言及

【前橋藩】より

…この間,主を失った城下町は衰え,農村も1783年の浅間山大噴火(浅間山)前後から荒廃が進んだ。川越藩でも財政破綻に苦しみ,相模湾警備の任などが加わって借財が幕末50万両を超えた。1840年(天保11)には画策した出羽庄内への転封に失敗,その代償に2万石加増となったが,幕末の藩主直克は改めて前橋城再築を請願し,67年(慶応3)帰城した。…

【松平信綱】より

…すなわち武家諸法度の改訂,参勤交代の制度化,鎖国の完成,牢人問題の処理,寛永の飢饉後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し,38年川越大火後の城郭修築拡張,城下町の町割と10ヵ町4門前制整備,喜多院・仙波東照宮再建,新河岸(しんがし)舟運開設,荒川・入間川治水,48年慶安総検地の実施,野火止用水開削と武蔵野開発,勧農政策などに努めた。また出羽庄内藩の幼主酒井忠義の外祖父として後見,藩内紛争を処理,その指示により農政策を建てた結果,同藩の体制は急速に整備された。…

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