江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方役人大河内久綱の長子。幼名長四郎,諱(いみな)正永。1601年(慶長6)叔父で長沢松平家を継ぐ松平正綱の養子となる。04年徳川家光の小姓として近侍。20年(元和6)采地500石,信綱と改名。23年小姓組番頭800石,家光上洛に供奉し従五位下伊豆守に叙任。24年(寛永1)2000石,27年1万石で大名に列する。30年1万5000石。32年老中並勤仕の命をうけ,33年3月六人衆(のちの若年寄),4月御数寄屋方(おすきやかた)支配,5月老中に任じ,武蔵忍(おし)城主となり3万石を領した。34年上洛供奉,従四位下に叙任。35年兼務小姓組番頭免除。37年11月島原の乱討伐の命をうけ,上使として戸田氏鉄(うじかね)と現地に赴き,翌年2月鎮定した。その功績により39年1月武蔵川越6万石に転じた。43年後光明天皇即位祝賀使として上洛,侍従に進む。47年(正保4)加増され7万5000石となる。51年(慶安4)4月家光が死ぬと,阿部忠秋とともに幕閣の頂点に立ち,保科正之,井伊直孝,酒井忠勝と幼将軍家綱を補佐した。松平定政の事件や由比正雪の乱(慶安事件)を処理し,57年(明暦3)の大火後の復興に努めた。60年(万治3)大坂城雷火破壊修復に京坂に赴き,62年3月病死した。武蔵岩槻平林寺(翌年,野火止に移転)に葬られ,松林院殿乾徳全梁大居士と号する。
〈知恵伊豆〉といわれて才気あふれ,逸話も多い。家光,家綱の2代にわたり新参譜代の中心として幕政を運営,幕藩制確立に尽くした。すなわち武家諸法度の改訂,参勤交代の制度化,鎖国の完成,牢人問題の処理,寛永の飢饉後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し,38年川越大火後の城郭修築拡張,城下町の町割と10ヵ町4門前制整備,喜多院・仙波東照宮再建,新河岸(しんがし)舟運開設,荒川・入間川治水,48年慶安総検地の実施,野火止用水開削と武蔵野開発,勧農政策などに努めた。また出羽庄内藩の幼主酒井忠義の外祖父として後見,藩内紛争を処理,その指示により農政策を建てた結果,同藩の体制は急速に整備された。
執筆者:大野 瑞男
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江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方(じかた)役人大河内久綱(おおこうちひさつな)の長子で、6歳のとき叔父(おじ)松平正綱の養子となる。9歳で徳川家光(いえみつ)に小姓として近侍、1623年(元和9)小姓組番頭、伊豆守(いずのかみ)に叙任。27年(寛永4)1万石。32年老中並(なみ)、33年六人衆(後の若年寄)、ついで老中武蔵忍(むさしおし)3万石(埼玉県行田(ぎょうだ)市)の城主となった。35年小姓組番頭兼務を免除。37年末、島原の乱鎮圧の命を受け、翌年2月鎮定。その功績により39年武蔵川越(かわごえ)6万石(埼玉県川越市)に転じ、47年(正保4)7万5000石に加増された。家光が死ぬと阿部忠秋(ただあき)と幕閣の頂点にたち、4代家綱(いえつな)を補佐し、松平定政事件や由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱を処理、明暦(めいれき)の大火後の復興に努めた。才気あふれ「知恵伊豆」といわれ、逸話は多い。家光・家綱2代にわたり新参譜代(ふだい)の中心として幕政を運営、幕藩体制の確立に尽くした。すなわち、武家諸法度(ぶけしょはっと)の改訂、参勤交代の制度化、鎖国の完成、牢人(ろうにん)問題の処理、寛永飢饉(かんえいききん)後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し、38年の川越大火後の城郭修築拡張、城下町の町割・復興と町制の整備、喜多院(きたいん)・仙波(せんば)東照宮再建、新河岸(しんがし)川舟運の開設、荒川(あらかわ)・入間(いるま)川治水、慶安(けいあん)総検地の実施、野火止(のびどめ)用水開削と武蔵野開発、勧農政策の実施などに努力した。また出羽庄内(しょうない)藩の幼主酒井忠義(ただよし)の外祖父として後見、藩内紛争を処理した。62年(寛文2)の死まで老中を勤め、武蔵岩槻(いわつき)の平林寺(へいりんじ)(翌年野火止に移転)に葬られた。
[大野瑞男]
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(山本博文)
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1596.10.30~1662.3.16
江戸前期の老中。武蔵国忍(おし)藩主,のち川越藩主。伊豆守。俗称知恵伊豆。父は大河内久綱。叔父松平正綱の養子となる。1604年(慶長9)徳川家光に近侍し,23年(元和9)小姓組番頭,32年(寛永9)年寄並。翌年六人衆として幕政に参画。3万石。34年従四位下に進み,翌年名実ともに年寄(老中)となった。37年の島原の乱鎮定の功により,39年川越6万石を与えられる。家光死後は徳川家綱を補佐し,幕閣の中心として活躍。
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…正盛は信濃国松本に移された後もその再建に尽くした。39年島原の乱を鎮定した老中松平信綱が忍から6万石で入封,47年(正保4)7万5000石となった。信綱は川越城を拡大再建,地割・町割を行って城下町に十ヵ町四門前の制度を整備し,新河岸川舟運の開設,荒川瀬替えに伴う川堤築造,武蔵野開発と野火止用水開削,総検地の実施,二毛作・早稲・畑作奨励と技術指導を用い,藩政確立に尽力した。…
…つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。 板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。…
…老中で川越藩主の松平信綱が1655年(明暦1)幕府に願い,現東京都小平市の西端で玉川上水を分水して,武蔵国新座郡野火止村(現,埼玉県新座市)周辺の武蔵野畑作新田を開発するために引水した生活用水。信綱が家臣安松金右衛門に命じて引水した24kmの用水路で,引又(現,埼玉県志木市)を経て新河岸(しんがし)川へ落流していたが,1662年(寛文2)から掛樋(かけひ)(いろは樋(どい))で川をまたぎ,対岸の宗岡村(現,志木市)などの水田灌漑用水とした。…
…1651年(慶安4)父正盛が将軍徳川家光に殉死したあと家督を継ぎ,下総佐倉藩主となる。60年(万治3)寛永寺の家光廟に参拝ののち幕府の許可を得ることなく佐倉に帰城し,保科正之,阿部忠秋にあて老中松平信綱を中心とする幕府批判の上書を呈出,旗本の困窮を救うためとして領地10万石余の返上を申し出た。このため,所領没収のうえ信州飯田城主脇坂安政(正信の弟)のもとへ配流に処せられた。…
※「松平信綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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