市川 百々之助
イチカワ モモノスケ
- 職業
- 俳優
- 本名
- 上田 直正
- 別名
- 別名=百々木 直
- 生年月日
- 明治39年 5月8日
- 出身地
- 広島県 広島市
- 経歴
- 明治44年、市川中軍の門に入り初舞台を踏む。大正7年から少年俳優が演じる歌舞伎劇のスターとして浅草などで出演。11年に帝キネ小阪撮影所に入社する。初めての作品は当時流行の切支丹物「異端者の恋」で、チャンバラ流行の時代にあって人気者となる。その後も美剣士スターとして活躍、年に20本内外の作品に主演した。昭和5年帝キネを退社し、舞台専門の旅興行に出るが、7年河合映画に入社。翌年には日活太秦に移り、「赤垣源蔵と堀部安兵衛」に出演、初の汚れ役として話題を集めた。戦後は百々木直と改名、東映時代劇などに出演した。
- 没年月日
- 昭和53年 1月15日 (1978年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
市川 百々之助
イチカワ モモノスケ
大正・昭和期の俳優
- 生年
- 明治39(1906)年5月8日
- 没年
- 昭和53(1978)年1月15日
- 出身地
- 広島市
- 本名
- 上田 直正
- 別名
- 別名=百々木 直
- 経歴
- 明治44年、市川中軍の門に入り初舞台を踏む。大正7年から少年俳優が演じる歌舞伎劇のスターとして浅草などで出演。11年に帝キネ小阪撮影所に入社する。初めての作品は当時流行の切支丹物「異端者の恋」で、チャンバラ流行の時代にあって人気者となる。その後も美剣士スターとして活躍、年に20本内外の作品に主演した。昭和5年帝キネを退社し、舞台専門の旅興行に出るが、7年河合映画に入社。翌年には日活太秦に移り、「赤垣源蔵と堀部安兵衛」に出演、初の汚れ役として話題を集めた。戦後は百々木直と改名、東映時代劇などに出演した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の市川百々之助の言及
【活劇映画】より
…20年代に入って,ダグラス・フェアバンクス主演《奇傑ゾロ》(1920),《三銃士》(1921),《ロビン・フッド》(1922)がさらに決定的に活劇熱をあおり,模倣作品を続出させた。 当時の活劇スターとして,尾上松之助に次いで,島津保次郎監督《堅き握手》(1922)や牛原虚彦監督《狼の群》(1923)などの勝見庸太郎,日本版《奇傑ゾロ》といえる《抜討権八神出鬼没》(1924)などの市川百々之助,同じく《奇傑ゾロ》の模倣作《怪傑鷹》や《争闘》(ともに1924)で〈鳥人〉の異名をとった高木新平がいる。こうして23年から24年ころにかけて,活劇という映画形式は定着した。…
【時代劇映画】より
…そして《女と海賊》が〈大へんな大当たりだったので,それ以後,他社の旧劇写真も新派映画なみに規格を上げて扱われはじめ,いつの間にか“新”を取り除いて“時代劇”と呼ぶことにきまってしまった〉ということである。
[活劇としての時代劇]
また同じ1923年,帝国キネマでデビューした市川百々之助は,〈猛闘劇〉と呼ばれたほど立回りの激しい時代劇の美貌スターとして,一躍大人気を得て,《長兵衛売出す》《剣難女難》などで女性観客をひきつけた。〈時代劇〉の名称を生んだ松竹以上に旧劇革新を遂行したのは,松之助映画を世に送り出した牧野省三である。…
【日本映画】より
…第2次寛プロ1931‐37)(15)山口俊雄(1928‐28)(16)月形竜之介(1928‐29/1931‐32。奈良生駒山ろく)(17)谷崎十郎(1928‐28)(18)山本礼三郎(1928‐28)(19)市川百々之助(もものすけ)(1930‐30)(20)沢村宗之助(1932‐33)(21)入江たか子(1932‐37。京都双ヶ丘)(22)高田稔(1934‐36) 以上が戦前のスター・プロで,寿命の長短ははなはだしいが,日本映画の大きな側面を担い,なかでも[片岡千恵蔵]プロダクションは稲垣浩,伊丹万作,山中貞雄ら俊才の作品を数多く世に出して,一時代を画した。…
※「市川百々之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」