朝日日本歴史人物事典 「平信兼」の解説
平信兼
平安末期の武将。盛兼の子。桓武平氏の一門で,伊勢国(三重県)鈴鹿郡の関を苗字とし,壱志郡にも勢力を有す。鳥羽院政末期から検非違使などとして活動。久寿2(1155)年,路頭で左大臣藤原頼長と闘乱,解官されるが,翌年の保元の乱には後白河方として参戦。独立した軍事貴族として行動したが,のちに平清盛に従属,「家人」と評される。河内・和泉・出羽守などを歴任,正五位下に至る。治承4(1180)年源頼朝挙兵の際に討たれた山木兼隆は子。平氏都落ちには同道せず,官職も保持したが,元暦1(1184)年7月,平田家継らと共に蜂起,鈴鹿山を切りふさいだ。このため,翌月源義経によって子息は殺害され,信兼も追討を受けた。<参考文献>角田文衛『平家後抄』,西村隆「平氏家人表」(『日本史論叢』10輯)
(元木泰雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報