桓武平氏平貞盛の子維衡(これひら)を祖とする武士団。10世紀後半以降,伊勢に勢力を占めた平氏には,維衡流と平良兼の孫致頼の一流があった。両流の998年(長徳4)および1030年(長元3)の両度の合戦の結果,維衡流が伊勢平氏としての地位を確立した。伊勢平氏は伊勢国多度神宮寺を氏寺とし,嫡流は正輔-正度-正衡-正盛(清盛の祖父)へと継承されるとともに,多くの庶家を分出し伊賀・尾張にまで勢力を拡大した。彼らは朝廷の諸衛官人・検非違使に任ぜられるとともに,有力貴族の私的武力としての家人になり京都で活躍し,また受領の郎等として地方にも勢力を扶植,さらには院の北面・近臣の地位を獲得することになった。伊勢海や三河湾およびその沿岸地域という海上を舞台としておもに活動する伊勢平氏の特徴は瀬戸内海さらには東シナ海に目を向けて西国経営に積極的姿勢を示した正盛・忠盛・清盛の政策に連なっているといえる。
→桓武平氏
執筆者:小田 雄三
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桓武(かんむ)平氏の主流。貞盛(さだもり)の子維衡(これひら)を祖とする。源氏の進出により、東国から伊勢・伊賀(三重県)に根拠を移した。維衡の曽孫(そうそん)が正盛(まさもり)で、忠盛(ただもり)、清盛(きよもり)と続き、一門は繁栄した。
[編集部]
平安中・後期,坂東に土着した平氏のうち伊勢国方面に進出した一派。桓武平氏。10世紀末,平貞盛の子維衡(これひら)が伊勢国を本拠に京都で活躍。その後,維衡の曾孫正盛は,1097年(承徳元)伊賀国の所領を六条院に寄進し,白河上皇の信任を得た。これにより中央政界への進出をはたし,伊勢平氏の勢力基盤を築いた。正盛の孫清盛のとき平氏の繁栄は頂点に達し,平氏政権を成立させたが,清盛死去後の1185年(文治元)一族は長門国壇ノ浦で滅亡。清盛の異母弟頼盛の一流のみが,鎌倉時代以降も公家として残った。
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…都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ,平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主(私領主)も出現したが,その没落後は平安末期にかけて,東大寺,興福寺,春日社,伊勢神宮,摂関家などの所領が数多く立てられた。【勝山 清次】
【中世】
伊賀国4ヵ郡のうち,とくに北伊賀の阿拝,山田両郡は11世紀末以降,平正盛,忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり,平家の一族・郎等が勢力を築いていた。しかし,治承・寿永の内乱は伊賀国の政治状況を一変させる。…
…この新興勢力を基盤とし,ある意味では彼らに利用されて権力を伸ばしたのが武士層にほかならない。伊勢で最も力を伸張した武士は,俗に伊勢平氏と呼ばれる桓武平氏の一流であった。 伊勢平氏の祖は桓武天皇6代の孫維衡(これひら)といわれる。…
…(1)国香の子孫は貞盛流と繁盛流の二つに分かれる。貞盛流からは伊豆国の北条氏や伊勢国の伊勢平氏が成立し,繁盛流からは出羽国の城氏や常陸国の豊田氏が出た。(2)良文の子孫は武蔵,相模,上総,下総の国々に繁衍し,12世紀後半から活躍する東国の在地武士の主要なもの,すなわち中村,土肥,村岡,秩父,江戸,畠山,小山田,渋谷,葛西,豊島,稲毛,河越,土屋,野与,村山,上総,千葉などの諸氏が出た。…
…1204年(元久1)の春に起こった伊勢平氏最後の反乱。乱の鎮圧に当たった平賀朝雅の報告書に,〈およそ狼両国(伊賀,伊勢)を靡(なび)かすといえども,蜂起三日を軼(す)ぎず〉とあるように,4月10日より12日までの戦いで雌雄が決せられたのでこの名称がある。…
※「伊勢平氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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