デジタル大辞泉 「源義経」の意味・読み・例文・類語
みなもと‐の‐よしつね【源義経】
村上元三の歴史小説。の生涯を描く。昭和27年(1952)から昭和30年(1955)にかけて全5巻を刊行。昭和41年(1966)にNHKでドラマ化された際には著者自身が脚本を担当した。
平安末期~鎌倉初期の武将。源義朝の末子,頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若,九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母および2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう)),乙若(のちの円成(えんじよう))とともに平氏に捕らえられたが,当歳の幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で,ほとんどが伝説・創作の域を出ない。
源九郎義経の行動が史実として確認されるのは,1180年(治承4)兄頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣してから以後のことである。頼朝の麾下に加わった義経は《吾妻鏡》にも〈九郎主〉と表現されるように,源家一門の御曹司として処遇され,頼朝の代官として,異母兄の範頼とともに平氏追討の大将軍として活躍した。84年(元暦1)1月まず京都にいた木曾義仲を討ってこれを近江に倒し,都の覇権をにぎった。ついで2月には平氏軍を一ノ谷に破ってその入京の勢いをとめた。この合戦における鵯越(ひよどりごえ)の奇襲は有名である。さらに翌85年(文治1)2月には讃岐国屋島の平氏軍を襲って大勝し,海上にのがれた平氏軍を追って関門海峡の壇ノ浦に戦い,これを全滅させた。3月24日のことである。その機知に富んだ戦術で平氏を討滅した義経は一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされた。そして当然その功を賞せられるべきであったが,平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく,後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可をまたずに検非違使・左衛門少尉になったため,鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い,疎外されるに至った。義経は腰越状(こしごえじよう)を送って弁解したが,ついに鎌倉に帰ることを許されず,追放の身となった。追いつめられた義経は,叔父行家と結んで反逆を企て,85年10月18日,後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。しかし義経らが結集しえた軍勢は少なく,この計画は失敗した。西海にのがれようとして摂津の大物浦に船出したが難破し,そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし,やがて奥州にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を求めた。しかし秀衡の死後,その子泰衡は頼朝の圧迫に抗しえず,89年閏4月30日,義経を衣川の館に襲撃し,これを自害させた。数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は,多くの人々の同情を集め,後世には彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となり,世に〈判官びいき〉の風潮を作った。
執筆者:安田 元久
義経に関する伝説・口碑はきわめて多い。義経伝説のこのような普及は,おそらく御子神(みこがみ)の信仰を背景とした,薄幸の英雄を愛惜するいわゆる判官びいきによるものと思われる。義経の逸話や説話は《平家物語》《吾妻鏡》に見えるが,それは義経が武人としてはなばなしく活躍した世盛りの時代を中心としている。《平治物語》には簡略だが義経の生い立ちについて記し,《源平盛衰記》では断片的だが生い立ちや武蔵坊弁慶,伊勢三郎との関係にまで及んでいる。《義経記》では,その世盛りはむしろ省いて,その生い立ちと没落とを中心として,当時,民間に行われていたらしい伝承を,一代記風に集大成している。能,幸若舞,御伽草子の義経物は,《義経記》に記された義経伝説とかかわるものが多いが,細部で異伝を伝えている。兵法書にも義経伝説に触れるものがあり,なかには義経流の兵法書なども伝わっている。江戸時代には蝦夷の地に渡り大王となったとする説が行われ,明治期には大陸に渡ってジンギスカン(チンギス・ハーン)になったとする説も行われたが,これらは御伽草子《御曹子島渡り》《天狗の内裏》《皆鶴》などの渡島伝説や地獄巡り伝説が歴史的に解釈された結果だと思われる。
今,《平家物語》《義経記》を中心にして,多くの伝説の概略を記す。
義経は義朝の九男(《尊卑分脈》《平治物語》など)とも,六男(《吾妻鏡》など)ともされるが,《義経記》では八男とされ,九郎を称した理由を鎮西八郎為朝の跡を継ぐためとされる。江戸時代の浄瑠璃や草紙類では,常盤腹の3子,今若,乙若,牛若を頼朝,範頼,義経として,義経を三男とするものがある。1159年12月,父の源義朝が平治の乱に敗死すると,常盤御前は牛若ら3人の遺児をつれて大和国宇陀郡にのがれる。この常盤の流離の物語は特に幸若舞《伏見常盤》の素材ともなっている。牛若は幼くして鞍馬寺の東光坊の阿闍梨(あじやり)(覚日阿闍梨,東光坊阿闍梨円(蓮)忍,覚円坊阿闍梨円乗とも)のもとにあずけられ,遮那王(しやなおう)と呼ばれた。自分の素姓を知った牛若は,平家打倒を心に秘め,昼は学問を修め,夜は鞍馬の奥僧正ヶ谷(涯とも)で武芸に励んだ。このとき,山の大天狗が憐れんで師弟の約を結び,兵法を授け,小天狗らと立ち合わせて腕を磨かせたとする伝説もある(《平治物語》《太平記》,能《鞍馬天狗》,幸若舞《未来記》など)。たまたま山に登った黄金商人(こがねあきんど)の金売吉次を説いて鞍馬を脱出し,藤原秀衡を頼って奥州に向かう。途中,近江国の鏡の宿で強盗に襲われるが,その頭目,由利太郎,藤沢入道らの首を取り賊を撃退する。異伝では鏡の宿が美濃の国の青墓宿,赤坂宿,垂井宿などともなり,賊の頭目も熊坂長範らとなることがある(能《烏帽子折》《熊坂》《現在熊坂》,幸若舞《烏帽子折》など)。尾張の熱田(あつた)では前大宮司を烏帽子親として元服し,九郎義経と名のる。この東下りの途中にも,無礼を働いた関原与市を牛若が切る伝説があり,場所は京の粟田口,美濃の不破,山中などともされる(《異本義経記》,能《関原与市》,幸若舞《鞍馬出》など)。三河国矢矧(やはぎ)宿では牛若丸は宿の長老の娘浄瑠璃姫と恋に陥る伝説(《浄瑠璃物語》など)などもある。駿河国では兄の阿濃禅師(今若)と会い,下野国では鞍馬で知り合った陵兵衛(みささぎのひようえ)を訪ねて,その冷遇を怒って館を焼き払い,上野国板鼻では伊勢三郎と会って家来とする。ついに奥州に入って吉次の手引きで秀衡に対面する。翌年,義経は単身で東山道を経て京に帰り,一条堀川(今出川とも)に住む陰陽師で兵法家の鬼一法眼(きいちほうげん)の娘幸寿前の手引きで,その秘伝の六韜(りくとう)兵法一巻の書を学びとる。鬼一法眼伝説は他に御伽草子《判官都話》(一名,《鬼一法眼》),《皆鶴》,能の《湛海》にも伝え,法眼の娘の名を皆鶴姫とするなど,異伝を含んでいる。これに似た伝説に御曹子島渡り伝説があり,奥州滞在中に義経は千島とも蝦夷(えぞ)ガ島とも称される島に渡り,鬼の大王の秘蔵する〈大日の法〉と名づけた兵法を大王の娘の手引きで盗み出すというものである(御伽草子《御曹子島渡り》)。この伝説の島が地獄となると牛若丸地獄巡り伝説となるが,これは牛若丸が鞍馬の毘沙門(びしやもん)に祈って,大天狗の内裏に至り,懇願して地獄を巡り,今は大日如来となっている亡父義朝に会うというものである。この時期で特筆すべき伝説は義経と武蔵坊弁慶との出会いを伝えるもので,《義経記》では五条天神と清水寺でのこととなっているが,五条橋での二人の対戦を描くいわゆる橋弁慶伝説は特に有名である(御伽草子《橋弁慶》《弁慶物語》,能《橋弁慶》など)。この伝説では,ふつう太刀1000本を奪う悲願を立てるのが弁慶で,義経と対戦して敗れ家来となることになっているが,1000本の太刀を奪うのが義経となっているものもある(《武蔵坊弁慶絵巻》など)。
世盛りの時代の義経の活躍は《平家物語》などに見えるが,なかでも摂津国一ノ谷鵯越で,人馬も通わぬ嶮岨な坂を精兵3000を率いて敵陣の背後をついた坂下し伝説,屋島の合戦に海に落とした自分の弓を,叔父為朝の剛弓に恥じて,危険を冒して拾い上げる弓流し伝説,壇ノ浦の海戦に,敵将能登守教経に追われて,次々と8艘の船に跳び移り,これをのがれた八艘飛び伝説,屋島の平家軍を襲うため,船の舳先(へさき)にも艫(とも)にも櫓を立て,進退自由にしようと主張する梶原景時と対立して今にも景時を切ろうとしたとする逆櫓論伝説,生捕りにした平宗盛父子を護送して相模国腰越に到着した義経が,頼朝から鎌倉に入るのを拒まれ,いわゆる〈腰越状〉を書いて弁明したとする腰越状伝説などが有名である。
京都に帰った義経は堀河の館にしばらくとどまるが,義経の討手を頼朝から命じられ,熊野参詣と称して上洛した土佐坊昌俊(正尊などとも)に襲われる(能《正尊》,幸若舞《堀河夜討》などにも)。北条時政が大軍を率いて討手に向かったとの噂を聞いた義経は,西国に下ろうとして摂津の大物浦から出船すると,にわかに暴風雨が起こって,平家の怨霊があらわれる。弁慶は術や法力でこれを鎮める(船弁慶伝説。能《船弁慶》,幸若舞《四国落》《笈(おい)さがし》などにも)が,結局は難船し吉野山中に逃がれる。吉野法師は義経一行を追うので,最愛の静御前と別れ,佐藤忠信は吉野にとどまって奮戦する。このとき,義経が形見として静に秘蔵の初音の鼓を与えた。その鼓には大和国の狐の皮が張ってあったが,その狐の子が忠信に化けて静の供をする話が《義経千本桜》などに見え,狐忠信伝説として有名である。忠信は吉野法師の追撃を振り切って都に潜入するが,愛人の裏切りで密告され,六波羅勢に囲まれて壮烈な死を遂げる。一方,義経は南都の勧修坊に身を寄せ,吉野法師はこれを襲うが,義経に散々に切られる。捕らえられて鎌倉に連行された静は,義経の子を産むが,その子は由比ヶ浜で殺される。幸若舞《静》などでは,このとき,梶原景時の提案で静の胎内を探って母子ともに殺そうとするいわゆる胎内さぐり伝説を伝えている。追いつめられた義経は,北の方(久我大臣の姫君)や弁慶以下16人の家来とともに,山伏姿に身をやつし,奥州に脱出するために北陸筋にかかる。大津から,大津次郎の献身で,無事に海津の浦に着き,愛発(あらち)山,三の口,平泉寺,如意の渡し,直江津と一行の上に危難がつづくが,そのつど弁慶の機知と胆力によってかろうじて乗り越える。能《安宅》,幸若舞《富樫》などに義経のこの北国落ちの途中,加賀国安宅(あたか)関で,富樫左衛門にとがめられ,弁慶がありもしない勧進帳を読んで富樫の疑念を晴らし無事脱する伝説が見える。義経一行が直江津でも怪しまれ,所持した笈を探される伝説は《義経記》に見えるが,幸若舞の《笈さがし》にも見える。奥州落ちの途中,陸奥国信夫の佐藤庄司の館では佐藤継信,忠信の母の尼公が山伏接待を行い,義経はこの接待を受けるが,身の上をかくして弁慶に継信,忠信兄弟の最期を語らせる。尼公は兄弟のはなばなしい戦死のさまに感泣する(能《摂待》,幸若舞《八島》にも)。秀衡のもとに着いた義経一行はその庇護を受けるが,やがて秀衡が死に,頼朝に屈した子の泰衡は衣川の館に義経を攻める。衣川の館にはるばる駆けつけた鈴木三郎重家,その弟の亀井六郎重清,片岡八郎,鷲尾三郎,増尾十郎,伊勢三郎,弁慶らは奮戦するが,弁慶は立往生をとげ,義経も自害する。この合戦の日の朝には常陸坊海尊が逃走する。この衣川合戦は幸若舞《高館(たかだち)》などにも記されている。伝説によっては,衣川合戦に義経は戦死せず,合戦に敗れ味方がことごとく討死した後,鞍馬の大天狗に助けられ,空を飛ぶ乗物で播磨国野口の里に飛来し,入道して教信上人と号し教信寺を建立したという(能《野口判官》など)ものもあり,蝦夷島に渡ってその地を征服し,オキクルミ大王と仰がれ,後には神としてまつられた(《続本朝通鑑》など)とするものがあり,東北から北海道にかけて義経神社などが多く,青森県東津軽郡外ヶ浜町の旧三厩(みんまや)村には,ここから義経が蝦夷島に渡ったとする伝説がある。また,義経やその家来にまつわる伝説は諸国に数多く残っている。
→義経記 →弁慶
執筆者:山本 吉左右
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安末~鎌倉初期の武将。源義朝(よしとも)の九男、源頼朝(よりとも)の弟。幼名牛若(うしわか)丸、遮那(しゃな)王丸、九郎。検非違使(けびいし)に任ぜられて九郎判官(ほうがん)と号した。
[高橋富雄]
義経は左馬頭(さまのかみ)源義朝と九条院雑仕常盤(ぞうしときわ)(常盤御前)との間に生まれ、平治(へいじ)の乱に父義朝が敗死したあと、母が一条大蔵卿(おおくらきょう)長成に再嫁したので、彼は鞍馬山(くらまやま)に送られ、仏門に入らされた。しかし、彼は、仏道の修行はせずに、父の仇(あだ)を報いると称して武道に励んだと伝えられる。そしていつのまにか鞍馬山を抜け出し、土民の中に交じって苦役しながら諸国流浪のすえ、平泉(ひらいずみ)にたどりつき、藤原秀衡(ひでひら)の庇護(ひご)を受ける。そして、1180年(治承4)兄頼朝(よりとも)の挙兵を聞いて、平泉を抜け出して、駿河(するが)国黄瀬川(きせがわ)に参陣、頼朝とともに平家討伐を図る。義経の鞍馬寺における生活、その東(あずま)下りの事情などはいっさい不明である。彼の従者などについても詳細はまったく不明である。そのために『平治物語』や『義経記(ぎけいき)』などは、天狗(てんぐ)の剣術指南、弁慶(べんけい)との出会い、金売吉次(きちじ)伝説など、さまざまな「牛若物語」を構え出している。
[高橋富雄]
頼朝の麾下(きか)に組織されてから後の義経は「九郎主」とよばれて、栄誉ある源家一門の御曹子扱いとなる。そしてその「鎌倉殿の代官」として、庶兄源範頼(のりより)とともに平家追討の大将軍となる。京都側の記録ではつねに彼が頼朝の首席代官とみなされている。こうして1184年(元暦1)正月、まず木曽義仲(きそよしなか)(源義仲)に大勝、都の覇権を握った。さらに2月、平軍を一ノ谷に撃破して、その入京の気勢をくじいた。そして翌85年(文治1)2月、西海の海に浮かぶ平軍を屋島に奇襲して大勝し、勝ちに乗じてこれを関門海峡のはざまに追い詰め、壇ノ浦の戦いについに平軍を全滅せしめた。ときに1185年3月24日のことである。
当然、義経はその大功を賞せられるべきところであったが、彼は頼朝の目付役たる侍大将梶原景時(かじわらかげとき)の訴えにより、頼朝の勘気に触れ、鎌倉に入ることができなかった。頼朝の側近、大江広元(おおえのひろもと)にあてて、いわゆる「腰越状(こしごえじょう)」を送り、その心中を訴えても、その弁疏(べんそ)は聞き入れられず、義経は追放の身となった。
[高橋富雄]
義経が頼朝にいれられなかったのには、いろいろな理由があった。しかしその根本は、頼朝が源家の棟梁(とうりょう)として譜代(ふだい)の郎党組織のうえにその権力を構えているのに、義経にはそのような固有の郎党組織がなく、義経およびその「手郎党」の個人的力量にすべてがかかっていたところにある。そのため、すべて御家人(ごけにん)を通して組織全体の集団行動として戦われるべき合戦が、義経の独断専行という形になり、頼朝の御家人たちと対立し、ひいては頼朝に疎外される結果ともなったのである。
京都側は頼朝を牽制(けんせい)する意味合いもあって、義経に同情的であった。院の昇殿を許し、畿内(きない)の寺社は陰に陽にこれをかくまった。1185年10月18日、義経は強要して頼朝追討の院宣(いんぜん)を得た。しかし11月6日、西海に下ろうとして大物浦(だいもつのうら)に難船したのちは、各所に転々して追及の手を逃れた。頼朝は守護、地頭(じとう)を設置して厳しくこれを追捕(ついぶ)させた。藤原秀衡を頼って再度平泉に逃れた義経は、秀衡死後その子藤原泰衡(やすひら)の襲撃にあい、89年閏(うるう)4月30日、妻子とともに衣川館(ころもがわのたち)に自害して果てた。
[高橋富雄]
義経の伝記は不明なところが多く、かつ数奇な運命にもてあそばれているため、その生涯はかっこうの英雄伝説として物語化されている。とくに体制支配者頼朝の厳しい追及のもとに窮死するその若き生涯への同情は、いわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」となって、日本における代表的な英雄伝説をつくりあげた。しかし、『平家物語』『源平盛衰記』まではまだ歴史性がある。『義経記』以降脚色化が進み、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)に至って完全なる創作の世界に入ることになった。
[高橋富雄]
『高柳光寿著『源義経』(1960・文芸春秋新社)』▽『渡辺保著『人物叢書 源義経』新装版(1986・吉川弘文館)』▽『鈴木亨著『源義経と源平の合戦』(2004・河出書房新社)』▽『奥富敬之著『源義経のすべて』新装版(2004・新人物往来社)』▽『安田元久著『源義経』新版(2004・新人物往来社)』▽『数江教一著『源義経――義経伝と伝説』(弘文堂・アテネ新書)』▽『角川源義・高田実著『源義経』(角川新書)』▽『和歌森太郎著『義経と日本人』(講談社現代新書)』▽『高橋富雄著『義経伝説』(中公新書)』▽『角川源義・高田実著『源義経』(講談社学術文庫)』▽『五味文彦著『源義経』(岩波新書)』▽『今泉正顕著『義経と静御前 二人の「その後」――各地に残された生存伝説は何を語るのか』(PHP文庫)』
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(五味文彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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1159~89.閏4.30
鎌倉前期の武将。父は義朝,母は常盤(ときわ)御前。頼朝の異母弟。幼名は牛若,九郎御曹司と称する。のち義行・義顕と改名。妻は河越重頼の女。平治の乱後鞍馬寺に流され,のち奥州藤原秀衡(ひでひら)の扶持をうける。1180年(治承4)頼朝が挙兵するとその軍に加わり,代官として兄範頼とともに東国武士を率いて上洛,源義仲や平氏一門を追討した。地域住人に対する徹底した軍事動員と,当時の合戦の作法を度外視した戦法によって連戦連勝した。頼朝の許可なく任官したため頼朝と不和となり,平氏滅亡後,鎌倉に下向したが鎌倉入りを拒絶され,85年(文治元)10月,後白河上皇から頼朝追討の院宣をえた。九国地頭職として西国住人に挙兵をよびかけたが失敗。再び奥州藤原氏を頼ったが,秀衡の子泰衡に殺害された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…京都防衛上の要衝宇治川でいくたびか行われた戦い。なかでも1184年(元暦1)正月20日,木曾義仲,源義経両軍の間にかわされた戦闘がもっとも有名である。前年7月に入京した義仲は,11月クーデタを断行,後白河法皇に迫って源頼朝追討の院宣を出させたうえ,元暦1年正月10日には征夷大将軍に任ぜられた(一説に11日,征東大将軍)。…
…御伽草子。渋川版の一つ。作者,成立年不詳。奥州藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた御曹子義経は,蝦夷(えぞ)の千島喜見城に鬼の大王が大日の法という兵法書を所持していると聞き,さっそく四国とさの湊から船出して喜見城の内裏へ向かう。途中,馬人(うまびと)の住む王せん島,裸の者ばかりの裸島,女ばかりが住む女護(にようご)の島,背丈が扇ほどの者が住む小さ子島などを経めぐった後,蝦夷が島に至り,内裏に赴いて大王に会う。…
…能の《安宅》を基に創作。兄頼朝と不和になった源義経が,京から奥州へ落ちる途中,加賀国(石川県)の安宅の関所を通過する時の一件を脚色。家来5人は山伏姿,義経は強力(ごうりき)(荷物持ち)になって安宅へ来る。…
…《判官(ほうがん)物語》《義経(よしつね)物語》ともいう。源義経の一代記だが,義経が平家追討の大将として活躍するもっとも華やかな時期の事跡はほとんど書かれず,幼少期と,平家滅亡後兄の源頼朝に追われて自殺するまでの逸話を内容とする。その点,語り本《平家物語》と相補関係にあり,成立当時の〈判官びいき〉の風潮を背景として,義経に関して一般には知られていない部分を主にしていると言える。…
…1185年(文治1)5月,源頼朝の不興を被って鎌倉入りを拒まれ,鎌倉の外の腰越にとどめられた源義経が,大江広元に取りなしを求めた書状。《吾妻鏡》に全文を収めるが,その真偽については不明である。…
…1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けた諸国源氏の挙兵から,85年(文治1)3月長門国壇ノ浦(下関市)に平氏一門が壊滅するまで,主として源平両氏による決戦のかたちをとって進行した全国的規模の内乱。当時の年号を冠してこう呼び,たんに治承の乱,あるいは源平の合戦(争乱)とも称する。
[内乱の序章]
すでに12世紀中葉,全国各地では国守・目代と在地武士との対立が激化し,ときにそれは後者の反乱を惹起していた。…
…母は磯禅師。源義経の愛妾。1185年(文治1)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき,静もこれに同行。…
…上演記録の初出は1545年(天文14)(《言継卿記》)。源義経主従が奥州の高館で討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなかに,熊野より鈴木三郎が到着する。義経より佐藤兄弟の残したよろいをたまわった鈴木は,たずさえた腹巻の由来を物語り,これを弟の亀井六郎に譲って,翌日の合戦では兄弟ともに奮戦して果てる。…
…1185年(文治1)下関市東方の壇ノ浦で行われた源平最後の海戦。この年2月源義経に強襲され,四国屋島(高松市)の陣営を放棄した平氏の総帥平宗盛らは,長門彦島(下関市)にあって関門海峡を扼する知盛の軍と合体し,劣勢を支えようとした。しかし屋島の戦勝によって瀬戸内の制海権を握った義経軍は執拗に追尾し,九州の源範頼軍も平氏の動きを牽制した。…
…〈虎の巻〉は今日では秘伝や物事の奥義を書いたものをいうが,もとは中国古代の兵法書《六韜(りくとう)》の1巻〈虎〉巻に由来するという。《義経記》によれば,一条堀河の陰陽師鬼一法眼(きいちほうげん)が所持していた兵法の秘伝を,源義経が法眼の娘の手引きにより盗み出した。これは中国から伝えられて,坂上田村麻呂,藤原利仁,平将門らが読み伝えたものであるという。…
…この山から一ノ谷へ下る断崖は急坂で〈馬も人もよもかよひ候わじ〉と言われた。しかし1184年(元暦1)2月,一ノ谷に陣を構えた平氏を討つため,この山上に出た源義経は,この断崖をシカが通るとの話を聞いて〈鹿の通程の道,馬の通わぬ事あるべからず〉と言い,ここを一気に駈け下って平氏の背後をつき,源氏軍を勝利に導いたという(《平家物語》)。一ノ谷の戦での〈鵯越の坂落し〉として有名な話である。…
…奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円におよぶ支配を確立した。源義経の保護者としても有名。それは74年(承安4)から80年(治承4)までと,85年(文治1)からその死にいたるまでの,2度にわたる。…
…後ジテは平知盛の怨霊。源義経(子方)は,兄頼朝との不和から都落ちをするはめになり,武蔵坊弁慶(ワキ)ら小人数を連れて西国に向かう。途中,摂津の大物ノ浦(だいもつのうら)の船宿で,あとを慕ってきた静御前(前ジテ)をさとし,都へ帰らせることにする。…
…この際,勲功賞が義仲の従五位上左馬頭(さまのかみ)兼越後守に劣るとして忿怒し,閉門辞退したと《玉葉》に記されている。ほどなく義仲と対立,やがて京に接近した源義経と結び,平氏滅亡(1185)後,兄頼朝と対立した義経とともに頼朝追討宣旨を得る。義経と摂津大物浦(だいもつのうら)から船で西海に赴こうとしたが遭難,和泉に隠れた。…
…世阿弥時代からある能。シテは源義経の霊。旅の僧(ワキ)が八島(屋島)の浦へ赴くと,老人(前ジテ)と若者(ツレ)の2人の漁夫がやって来るのに会い,その塩屋に泊めてもらう。…
…これより1年前,一ノ谷の戦に敗れはしたものの,平氏は総帥平宗盛が安徳天皇を擁して屋島を本営とし,平知盛が長門彦島に拠って関門海峡を押さえ,なお瀬戸内一帯の制海権を温存した。このため,山陽道を西進した源範頼麾下の追討軍は戦果に乏しく,鎌倉の源頼朝は再度源義経を登用し,屋島を突かせることにした。2月18日未明,風雨に乗じて摂津渡辺を出帆した義経は,同日早朝150余騎とともに阿波勝浦に上陸,昼夜をついで国境の山路を越え,一気に屋島を攻撃した。…
※「源義経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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