日本歴史地名大系 「弥兵衛村」の解説 弥兵衛村やへえむら 埼玉県:北埼玉郡大利根町弥兵衛村[現在地名]大利根町弥兵衛新川通(しんかわどおり)村の西に位置し、村の北東を利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。村名は飯積(いいづみ)村(現北川辺町)の平井外記とその子弥兵衛が開発したことによるという(風土記稿)。また、貞享三年(一六八六)の利根川通関所之外脇渡場改覚(竹橋余筆)には、飯積村名主善左衛門が六〇年以前田地を求めて引越し、弥兵衛村名主を勤めたとある。その後平井家が代々名主を勤めた。田園簿には弥兵衛新田とみえ田高八石余・畑高一八六石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)の向川辺領村々高書上帳(同文書)では幕府領。 弥兵衛村やへえむら 埼玉県:川口市弥兵衛村[現在地名]川口市弥平(やへい)一―四丁目・東領家(ひがしりようけ)一―二丁目・同四丁目領家村の北に位置し、低地の村。ほぼ中央を千住(せんじゆ)(現東京都足立区)への道が東西に通り、北東端の弥兵衛堀に沿って新井方(あらいかた)村境から領家村境に至る馬踏み一間半の堤塘がある(郡村誌)。田園簿では弥兵衛新田とみえ、田二一六石余・畑二石余で、幕府領。元禄郷帳には弥兵衛村と記され、高一五三石余に減じているが、上(かみ)新田村(現鳩ヶ谷市)が分村したためという(風土記稿)。宝永三年(一七〇六)江戸根津(ねづ)権現社領となり幕末に至る(安政二年「岩淵川口両宿組合地頭性名其外書上帳」永瀬家文書など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by