新田村(読み)しんでんむら

日本歴史地名大系 「新田村」の解説

新田村
しんでんむら

[現在地名]前原市新田

油比ゆび村の南、糸島いとしま半島中央部南側の低地に位置する。同村地先の入海に開かれた新田。東に接するとまり村、南に接する前原村との間をいずみ(雷山川)が、西に接する師吉もろよし(現志摩町)との間をはつ川が流れ、当村南西端の加布羅かぶらで別別に入海に注いだ。その後辺田へた(現志摩町)荻浦おぎのうら村地先の干拓が徐々に入海を狭め、両川は加布羅地先で合流して流れるようになる。元和二年(一六一六)福岡藩の代官菅和泉正利が泊村境で海に注いでいた雷山らいざん川を前原村方向へ曲げ、「志摩郡塩堤普請」を実施、普請を担当した菅和泉にちなんで和泉川(泉川)とよんだ。同四年までに新開五〇町余を築立て、領内の田畠を耕作していない百姓および慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣以前の走者を新地百姓として招致し、新田村が成立。福岡藩領。当初は油比村の枝郷。百姓居屋敷は同村抱畠に設けられ、代地として新田村壱作のうち、畠九畝余が油比村に渡された。その後、慶安二年(一六四九)から寛文二年(一六六二)までに田地が開かれたと伝える(「続風土記」、天明五年「御床触村々風土記下地書上帳」鎌田家文書など)。また津和崎つわざき(現志摩町)地先を干拓した肥前浪人神代竜念が数戸を伴って移住したのが当村の始まりで、実態は津和崎村からの作出だったとの推定もある。


新田村
につたむら

[現在地名]迫町新田

栗原郡佐沼さぬま郷七ヵ村の一つで、東は北方きたかた村、西は藤沢ふじさわ(現栗原郡瀬峰町)、南は遠田とおだ蕪栗かぶくり(現田尻町)、北は太田おおた(現栗原郡築館町)および畑岡はたおか(現同郡若柳町)に接する。なが沼と伊豆いず沼を境する丘陵を中心としてL字形に南へ延びる大部分丘陵の村で、南北二里一八町・東西二里四町。北方村佐沼町へ一里一二町、築館つきだて(現築館町)へ一里二四町。「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条にみえる新田柵、同書神護景雲三年(七六九)三月一三日条にある新田郡の遺称地と考えられる。「安永風土記」によれば、村名は鎌倉時代に新田四郎なる者が居住したことから起こったとあるが「慥成儀者相知不申」と断り、「住居之館跡館林と申所ニ御座候」と伝える。島根県松江市の妙興寺御本尊脇書に乾(寛)元二年(一二四四)三月一三日として「授与之奥州三迫上新田越前房」とある。嘉暦二年(一三二七)一一月一〇日の僧日目譲状(大石寺文書)によれば、「上新田坊并坊地」は弁阿闍梨に譲られており、弁阿闍梨の後に幸松へ譲ることが指示されている。僧日目は新田領主小野田(新田)重綱の五男で、弘安六年(一二八三)当地方に布教している。

正保郷帳に田七二貫四八九文・畑九貫九九八文とあり、ほかに同所新田四貫九一二文があり、雑木山と注記される。「安永風土記」によれば、田二三七貫四三八文・畑二三貫四七四文で、蔵入は一八五貫八五二文、給所は七五貫六〇文、人頭二二八人、家数二五五(うち水呑二七)、男女都合一千五三六、馬三一〇、かっこ舟一一九はすべて作場通用船である。


新田村
につたむら

[現在地名]川西市新田しんでん一―三丁目・平野ひらの二丁目・多田院ただいん一丁目・向陽台こうようだい一―二丁目・緑台みどりだい二丁目・新田しんでん

多田院村の東、猪名いな川としお川にほぼ囲まれて立地する。多田の開発に伴う地名と考えられ、元禄一一年(一六九八)の国絵図御用覚(多田神社文書)に「ニツタ」の訓がある。享徳元年(一四五二)一二月二九日の沙弥本立売渡状(同文書)に「多田庄新田村」とあり、多田院千部経中に村内高岡西窪を三石五斗で売渡している。文明八年(一四七六)高岡仲明が多田院御堂修理料として新田村内の木村屋敷前の田を寄進している(同年一〇月八日「高岡仲明寄進状」同文書)。「細川両家記」によれば、永正一六年(一五一九)秋細川高国は都を立ち、越水こしみず(現西宮市)の救援のため小屋こや野間のま(現伊丹市)や新田・武庫川むこがわに陣取り、澄元方との合戦に及んだという。


新田村
しんでんむら

[現在地名]観音寺市新田町

粟井あわい村の北東に位置し、南東に広がる洪積台地と北西に位置する池尻いけのしり村の池・亀尾かめお池に向かい犬牙状に突き出た舌状台地およびその先に飛地のように位置する台地を含む。当新田は粟井村治右衛門が万治二年(一六五九)に開発、治右衛門が初代庄屋となった。延宝二年(一六七四)検地が行われ、同六年から年貢を納めたが(諸役は免除)、藩領支配上一村としては認められず、寛文二年(一六六二)に開発された粟屋あわや新田の高を含む五九三石余は、二〇〇石が粟井村、九三石余がはら村、三〇〇石が古川ふるかわ村の高に繰入れられた(「新田村用水一件」松岡文書)。この新しい土地は畑作しかできないので、水田にするため、二代目庄屋西山九郎右衛門は寛文元年から同二年までの一年間で奥谷おくだに(現新池)を築造した。


新田村
にいだむら

[現在地名]古川市新田

江合えあい川南方の水田地帯にあり、玉造たまつくり郡の東端部。東は志田郡塚目つかのめ村、西は伏見ふしみ村、北は三丁目さんぢようのめ村、南は渋井しぶい川を挟んで志田郡渋井村に接する。大崎氏の祖斯波家兼は、貞和二年(一三四六)頃奥州管領として下向し、大崎おおさき名生みよう・新田・小野この中新田なかにいだ(現加美郡中新田町)に、いわゆる大崎五御所を配して支配の中心にした。新田は大崎氏の支配にとって、重要な地点であった。「伊達正統世次考」天文五年(一五三六)二月上旬の項によれば、大崎義直は重臣新田安芸頼遠を討つため新田の城を攻め、九月一一日新田安芸は最上(現山形県)へ逃れた。天正年間(一五七三―九二)の大崎氏の内乱では、新井田刑部義景が主君大崎義隆を居城新田城に幽閉した(成実記)


新田村
しんでんむら

[現在地名]桃山町段新田だんしんでん百合ゆり

紀ノ川南岸に位置し、対岸は上野うえの花野けやくぼの各村(現打田町)、南は小路しようじ村、西はだん村に接する。村域は紀ノ川の河原の地で、村名のごとく新田である。伝えによれば、藩主徳川頼宣が段村の妙法壇みようほうだんからこの地を望み、藩士安藤忠兵衛に開発を命じ、開発すれば土地を与える、また隠居するならこの地を選べと命じたことにより、寛永元年(一六二四)より開墾がなされたという。和歌山藩領田中組に属した。

「続風土記」は元禄一五年(一七〇二)に検地があり、この折に新村とされたというが、同二年の田中組指出帳(田中家文書)によれば村高一〇七・七三石、うち田方が二町五反余で二一・八八石、畑方が七町七反余で八六・六四二石とあり、畑地の多い新田村であった。


新田村
しんでんむら

[現在地名]大東市新田〈ほん町・東本ひがしほん町・なか町・西にし町・あさひ町・きた町・さかい町〉・太子田たしでん二丁目・氷野ひの四丁目・御領ごりよう三丁目・諸福もろふく一丁目

御領村・氷野村・太子田村の西にあり、茨田まんだ郡に所属。北から西は現門真かどま市・大阪市鶴見区と接する。低湿地であるが、現新田北町から弥生中期の石槍が出土した。村は近江から来住した草分百姓が、諸福に仮寓して開拓したと伝え、村として設定される際、東と南の境界は直線状に設けられたらしく、そのため近隣諸村からの入作が多い。南北朝期には西氷野にしひの庄に含まれており、建武元年(一三三四)四月一〇日の後醍醐天皇綸旨(三浦文書)に「西比野庄内新田・下村」とみえ、地頭職が三浦氏に宛行われている。


新田村
しんでんむら

[現在地名]高松市新田町

春日かすが村の東に位置し、しん川下流東側平野部に立地する。東南に竜王りゆうおう山・宝太郎ほうたろう山・久米くめ山などの低丘陵があり、西北に水田が広がる。「南海通記」によれば、古くは当村小山こやま辺りまで潮がさしてきたといい、平野部の大半は入海であったとされる。小山の北、新川沿いに堀江ほりえの字名が残る。丘陵部は古墳の密集地で、また奈良から平安時代の古瓦が出土する山下やました廃寺、久米池辺りには行基草創と伝える久米寺跡がある。慶長八年(一六〇三)生駒一正は、小山の一〇〇石を含め山田郡内で二五〇石を大山助十郎に宛行った(「生駒一正宛行状」大山家文書)。寛永国絵図では古高松ふるたかまつ郷のうちに新田村と、村域に比定される友久ともひさ・小山・久本ひさもとの集落名が載り、当村と西片本にしかたもととの間は海として描かれている。


新田村
にいだむら

[現在地名]相馬市新田

宇多うだ川の旧流とみられるうめ川北岸の平坦地に位置し、南は程田ほどた村・柏崎かしわざき村、東は松川まつかわ浦に臨む。天保郷帳には「古者 新田村・二股新田弐ケ村」と注記される。「奥相志」は「往昔、邑の東半を名づけて二俣邑といふ。西に新田を墾きて新田邑と名づけたり。爾来西を上新田と言ひ、東を下新田といふ。下新田は則ち古の二俣邑なり」という里伝を載せる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして御中館分の「にい田」がみえ段銭は二貫三五〇文、同じく同庄のうちとしてみえる「下にい田」の段銭は一一貫七五〇文とある。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項などによると、二股金七郎が住み、采地一四貫三七五文を有する。


新田村
につたむら

[現在地名]鳴瀬町新田

小野おの本郷より鳴瀬川左岸を北上する涌谷わくや街道東側の丘陵谷間とわずかに開けた平野に位置。西は福田ふくだ村、東は高松たかまつ村、北は大窪おおくぼ(現矢本町)。正保郷帳に村名がみえ、田二八貫八二九文・畑一貫五〇九文で、ほかに新田一貫六二九文。「安永風土記」では田三一貫八〇文・畑一貫一四一文。ほとんどが小野本郷在住の富田氏の給所であった(天保七年「知行割目録」富田家文書)。前掲風土記によれば人頭一〇人、家数一〇、男四〇・女二八、馬一〇。


新田村
にいだむら

[現在地名]多賀城市新田

高橋たかはし村の西に位置し、西端岩切いわきり(現仙台市)との境を流れる七北田ななきた川によって形成された自然堤防と後背湿地に立地。永仁二年(一二九四)一〇月一三日の法眼良弁譲状(留守文書)に「新田内熊野堂、同神田三町」とあり、翌三年七月二三日の関東下知状(同文書)によって留守家政に安堵された。法眼良弁は伊沢(留守)家景の孫で塩竈神宮寺の別当。この所領はその後、家政から孫家明に譲られ(正安二年五月二一日「留守家政譲状」同文書)、家明から家任へと相伝される(元亨四年六月一九日「留守家明譲状」同文書)。熊野堂は高崎の五大たかさきのごだい院、村岡むらおか(現宮城郡利府町)金峯山きんぷせん堂とともに塩竈神宮寺の末院と考えられるが所在地は不明。


新田村
につたむら

[現在地名]梁川町新田

細谷ほそや村の北、阿武隈川の氾濫原に位置。同川の旧河道沿いにあたるとみられ、村名は湿地を示すニタ、ヌタに由来するといわれる。由来には諸説あるが、「信達二郡村誌」は新田家の一族一六騎が来住したことによると伝える。永正一三年(一五一六)四月二三日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「新田之郷」とみえ、佐藤孫右衛門が石母田左京亮から購入した同郷のうち室田在家一宇などが安堵されている。同一六年三月二四日には萱場鶴増に泉福寺から買得した伊達東根だてひがしね新田郷のうち梨木なしのき町一宇(年貢二貫文)などが安堵されている。ただし梨木町を現細谷地内ないしは現保原ほばら二井田にいだの字梨子木なしのきに比定する説もある。


新田村
しんでんむら

[現在地名]佐世保市新田町・小野町おのちよう川下町かわしもちよう椎木町しいのきちようほう浦町うらちよう大潟町おおがたちようなど

相神浦あいこのうら村の東、相浦あいのうら川が九十九島くじゆうくしま湾に注ぐ河口部にある。北部に愛宕あたご山がある。江戸時代は相神浦村のうちで、のちの山口やまぐち村域のうち相浦川流域を中心としたと考えられる。明暦二年(一六五六)藩営の普請により相神浦および山口村地先が干拓され、寛文五年(一六六五)に完成したとされるので(松浦家世伝草稿)、この新田を含むものであろう。


新田村
にいだむら

[現在地名]いわき市四倉町よつくらまち上仁井田かみにいだ四倉町よつくらまち下仁井田しもにいだ

仁井田川河口両岸にあり、北の左岸は上仁井田、南の右岸が下仁井田となる。北は四倉村、西は塩木しおき村、南は細谷ほそや村。永徳四年(一三八四)八月日の好島東庄放生会祭礼役注文(飯野八幡宮文書)に「富田・新田・狐塚・四町目・塩木五ケ村寄合 西庁屋五間作之新田村流鏑馬并相撲」とみえる。磐城郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。


新田村
しんでんむら

[現在地名]伊万里市新天町しんてんちよう

かつて伊万里湾頭であった海域を干拓した所で、明暦元年(一六五五)の高庄唯太夫覚書に「元和弐年某親善左エ門浜町いまだがた(潟)にて御座候を更に不審(ママ)(ママ)作いたし一家数年罷在候処、本方より寛永六年巳年伊万里町下より高胡こうこ崎迄新土井御封切り被成候而新田出来申候」と記し、土井築立を寛永六年(一六二九)としている。

村内中井樋竜神宮なかいびりゆうじんぐうの正徳元年(一七一一)八月一五日の刻銘や上土井かみどい(現伊万里町字上土井町)の天保六年(一八三五)建立の竜神宮などはその後のものである。正保絵図に海岸を直線に描いてあることによって寛永六年築立が裏付けられよう。

小字名にはまうら中島なかしま土居どいうら中井樋向新田なかいびむこうしんでん竜宮角りゆうぐうかく葭本よしのもとがある。


新田村
しんでんむら

[現在地名]倉吉市新田・河北町かほくちよう天神町てんじんちよう

下古川しもふるかわ村の北東、天神川両岸を占める。南は小田こだ村。天神川両岸を結ぶ渡船場があったが(藩史)、現在は新田橋で結ばれている。もとは上井あげい村の北に本村があったが、延宝元年(一六七三)の天神川氾濫により鳥取藩の許可を得て現在地に移ったという(倉吉市史)。拝領高は二九七石余、本免五ツ三分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四三〇石、竈数五〇余。


新田村
につたむら

[現在地名]大原町新田

深堀ふかほり村の西に位置し、村内を塩田しおた川の支流の新田川が流れる。もと内野うちの村に含まれていたが、延宝五年(一六七七)一村扱いとなる(→内野村。同年の中滝領分知帳(中村家文書)に内野郷之内新田村とみえ、高一千四石余、旗本阿部五千石領のうち。このとき若山わかやまの高のうち三一五石余が当村に編入された。以降同領で幕末に至る(旧高旧領取調帳)


新田村
しんでんむら

[現在地名]大内町新田

いも川が北から西に流路を変えた地点の左岸。東は見岫みぐき村、西は中田代なかだしろ村に接する。

元禄六年(一六九三)の御訴訟申上新田之事(上川大内村郷土誌)に「中田代新田村」とあり、中田代村の東部に水を得れば開田できる一の台いちのだい二の台にのだい三の台さんのだいとよばれる河岸段丘があった。元禄二年、亀田かめだ(現岩城町)の神坂清五郎が岩野目沢いわのめざわ村の勘兵衛と協力、亀田藩の許しをうけ新開に着手した。


新田村
しんでむら

[現在地名]敦賀市三島みしま

津内つない村の西、しようノ川の左岸に今屋敷いまやしき徳市とくいち田島たじまの村村と交錯して位置する。若狭街道が村内を通る。永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(善妙寺文書)に「新田村」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしま郷に属し、正保郷帳で高付され、田方二九九石余・畠方一六石余。元禄郷帳で今屋敷・河原かわら新津内しんつない村の三村が分村、高は一二一石余となる。


新田村
しんでんむら

[現在地名]防府市大字新田の全域、および三田尻みたじり二丁目・華浦かほ二丁目の各一部

桑山くわのやまの東南、むこう島を望む三田尻みたじり村沖を埋め立ててできた新田村で、この新田開発によって向島と陸地との間はわずかなものとなった。萩藩領で三田尻宰判に属する。

新田村の成立について「注進案」は

<資料は省略されています>

と記す。四代藩主による公儀開作であった。

石高はすでに「地下上申」の三田尻村の項に、新田分として高一千八九八石余(田方一千八八六石余、畠方一一石余)が記され、家数も新田分六二、人口は四一四とある。

「注進案」では総田畠町数一九五町余で総高三千一七一石余、うち三千一五九石余が蔵入で、残り一一石余は山県与一左衛門家の給領地であった。


新田村
しんでんむら

[現在地名]大川市新田

一木ひとつき村の西に位置し、筑後川左岸に沿う。北は網干あみほし村、南は紅粉屋べにや村、はさま(現柳川市)。柳川藩領。元和八年(一六二二)の柳川領惣高帳(立花家文書)にみえる一木村新田分八五〇石にあたる。柳川藩領図には「一木之内新田村」とみえるが、元禄国絵図・天保郷帳には記載がない。旧高旧領取調帳の高九八八石余。幕末から明治初年の反別は七〇町四反余(郡郷)。「南筑明覧」に「自浜武村至新田村番所辺、本土居田中公所築也」とあるように、田中吉政が慶長七年(一六〇二)に築いた慶長本土居が村内を走り、その外縁には江戸時代初期から干拓が進められた。


新田村
にいだむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 新田

長野ながの村の北、せり川上流域北岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高一〇四石余・畑高五〇石余、朽網くたみ郷に属し、水損地であった。嘉永五年(一八五二)の長野組物成定(戸伏家文書)によれば高二一二石余、村位は中、免七ツ一分。同年の軒数二五・人数九九、牛四九・馬二一、うち岡藩の御預牛制度による預牛馬一八(「軒別作高人別牛馬書上帳」同文書)。旧高旧領取調帳では高二一七石余。岡藩領時代は長野組に属し、当村には小庄屋が置かれた(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。村内に嵯峨さが(現久住町市の宮処野神社)領六斗余の水田があった(地方温故集)


新田村
にいだむら

[現在地名]五戸町 上新井田かみにいだ根岸ねぎし銀杏木いちようのき下新井田しもにいだなど

五戸村の北東、五戸川左岸の低地に位置する。永仁五年(一二九七)の五戸郷検注注進状(新渡戸・岩大文書)に「にいた 一ちやう二たん七かう」とある。天正年間(一五七三―九二)には当村の西の根岸・銀杏木を中心とした山麓一帯を新田村と称したといわれ(五戸町誌)、慶長初年と推定される七月晦日付の木村杢宛南部信直書状(木村家文書)は宛名を「新田杢方へ」としている。


新田村
あらたむら

[現在地名]上野原町新田

上野原村の南、桂川北岸の氾濫原に位置し、西方松留まつどめ村との境を南流するつる川が当地で桂川に注ぐ。「甲斐国志」によると村内は上新田と下新田の両村に分れ、桂川や鶴川が山間地を出て平地を形成する地にあたるため、周辺の諸村より低地になっていた。集落の背にあたる北側は高岸で、前方には水田が開け、桂川の対岸鶴島つるしま村へは渡船がある。助郷は上野原宿へ出役。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控には荒田村とみえ、高八六石余。


新田村
につたむら

[現在地名]君津市上新田かみにつた

箕輪みのわ村の西、小櫃おびつ川中流右岸に位置する。村の南側を久留里くるり道が通る。近世中期以降舟運が盛んになり、新河岸が設けられた(粕谷家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一三石。元禄郷帳では高二三六石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高二四八石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数三五。安政三年(一八五六)・同五年・同六年・万延元年(一八六〇)には百姓が川舟を一艘もち運送を行っていた(粕谷家文書)


新田村
にいだむら

[現在地名]米沢市上新田かみにいだ下新田しもにいだ

川井かわい村の北に位置。まつ川東岸の低地に立地し、南北に長い地形である。新井田とも書かれた。戦国時代には屋代やしろ庄のうち新田郷。永正一六年(一五一九)一〇月九日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、今村新十郎より買地の「伊達□□新田郷」のうち「松木内」一宇(年貢一貫五〇〇文の地)、「あひた内」(年貢四〇〇文の地)を一宇残らず永代卯花藤兵衛尉に安堵している。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば、屋代庄「にい田」から一五貫三五〇文を納めている。


新田村
しんでんむら

[現在地名]竜北町新田

上新田かみしんでん・下新田からなり、また上野間かみのま・下野間ともよばれている。上新田は沖積地、下新田は鹿島かしま開の一部である。東は吉本よしもと村・南大野みなみおおの村、北は吉本村、南は北野津きたのづ村・新地しんち村、西は砂川尻すながわじり新地のうち東網道ひがしあみどう村と接する。寛永郷帳以下の郷帳に載せない。検地帳類も現存しない。「国志草稿」に「新田村 七拾九石余」。文化一〇年(一八一三)頃の種山手永手鑑に「新田村 右小村 野間 新地、高七拾九石六斗九升九合御蔵納・御給知、田畝数六町弐反弐畝余・畑畝数四反、竈数五拾三軒、牛馬三拾疋 内牛三疋」とある。


新田村
にいだむら

[現在地名]津山市新田

勝南しようなん郡に属し、西は河辺かわなべ村、南は福力ふくりき村で村境を広戸ひろど川が流れる。天武天皇の皇子新田部親王の所領地であったため生じた地名と伝える(東作誌)。集落は「山上り」により承応二年(一六五三)丘陵上に移転(美作略史)。領主の変遷は西吉田にしよしだ村と同じ。正保郷帳では田方四三五石余・畑方五四石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では六四八石余、うち改出高一三八石余・開高一九石余。「東作誌」でも同高で、本田畑六二八石余・新田畑二〇石余、四二戸・二七一人。天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では五五戸・二七〇人。


新田村
にいだむら

[現在地名]新発田市みどり町一―三丁目・城北じようほく町一―三丁目・小舟こふね町一―三丁目・中田なかた町一―二丁目

新発田城下の北に接し、北は中田川を挟んで中田村・中谷内なかやぢ村。村名は「租税ニ関スル証書ニハ(中略)新田村ヲ以テシ、郡治ニ係ル証書ニハ新井田村ヲ以テ称セリ」(新井田村々誌)といい、近代以降の表記は「新井田」となる。新発田藩では家臣に知行地として荒地を宛行い新田開発を推進したが、慶長一二年(一六〇七)の給人開田方定納之帳(新発田市史資料)によると、城下近郊の当地の開発にはとくに多くの藩士やその家来が携わり、最も多い若山長右衛門尉は二〇筆二町余(三斗代分米六石余)に及ぶ。同一七年の御蔵納同払方帳(同資料)に新発田組として村名がみえ、二二九石一斗余でほど役三石六斗余。


新田村
しんでんむら

[現在地名]南陽市新田

中川なかがわ盆地南部にあり、南は鳥上とりあげ坂を越えて赤湯あかゆ村、北は川樋かわとい村につづく街村状集落。大洞おおほら金山が栄えていた頃の村と伝え、正月に鉱夫の看板である縄のれんを家の入口に下げる習慣が残り、萱場千軒かやばせんげんの言伝えもある。元禄一五年(一七〇二)の変地帳(上杉家文書)によれば、川樋村のうちから新田村を新しく取立て、国絵図・郷帳に載せたとある。しかし天保郷帳にはみえない。上杉領村目録によると高三六四石余、本免一ツ三分。反別は田二二町九反余・畑七町余(寛政二年改)、家数三三・人数一七三、馬三。


新田村
につたむら

[現在地名]寒河江市日田につた

最上氏改易後、仁田にた村が相給村となり二村に分立した一村で、集落・田畑とも両村錯綜する。仁田氏が衰亡したあと、永享元年(一四二九)新田重通なる者が下野国都賀つが吉田よしだ館より来住し、仁田氏の跡に館を構えたと伝える。新田館跡は現存しないが、昭和一〇年(一九三五)の調査によると、最上川の河岸段丘を利用し、後田うしろだの東西四五間・南北五〇間の地を占め、周囲に幅五間の堀をめぐらし、内郭の内側に幅三間・高さ六尺の土塁をめぐらしていた。最上氏改易後の上山藩領一千三一一石余が当村で、文化一二年(一八一五)以降は幕府領として幕末に至る。


新田村
しんでんむら

[現在地名]宇治市五ヶ庄

五ヶ庄ごかのしよう村を構成する村の一つで、その南部に位置する。新出村と記されることも多い。近世初頭に大和田おわだ村と畑寺はたでら村の中間付近の丘陵端を開いたといわれるが、詳細は不明。五ヶ庄内の他の村々とのかかわりは薄く、寺檀・親縁上にも近接する村との関連が認められないので、他の地域から移住した人々によって開拓されたものと推察される。


新田村
につたむら

[現在地名]袖ケ浦市下新田しもにつた

三ッ作みつざく村の西に位置し、村の南部を浮戸うきと川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二八五石。初め旗本太田領(吉田家文書)、文政一二年(一八二九)には鶴牧藩領、同藩領として幕末に至る(鳥飼家文書)。寛文九年(一六六九)かみ池の取水権をめぐって西の飯富いいとみ村と争い、等分の利用権を勝取っている(下新田区有文書)


新田村
にいたむら

[現在地名]青森市新田

東北は陸奥湾に面し、東南は沖舘おきだて村、南西は石神いしかみ村、西北は新田川で油川あぶらかわ村支村新派にいはだちに接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に西新田村とあり、高九六・六三石とある。同年の津軽郡之絵図には新田村とある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一四〇・一二七石、うち田方一一八・五六七石、畑方二一・五六石とある。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)


新田村
しんでんむら

[現在地名]大刀洗町富多とみた

筑後川支流の小石原こいしわら川下流右岸に位置し、南は下川げかわ村に接する。正保四年(一六四七)の大小道之帳によれば、「新田村」より大城おおき(現北野町)までの小道がある。本高は一二一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二〇〇石・役高一八九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一八九石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一三町七反余・畑田四反余・畑五反余・居屋敷二反余。


新田村
ばらしんでんむら

[現在地名]鶴岡市茨新田

道地どうじ村の東、大山おおやま川西岸の低湿地にある。武藤氏時代の道寺山どうじやま館主佐藤左衛門五郎広明の子孫、治郎右衛門により、寛永一七年(一六四〇)三五石余・三町七反余が開発されたのが始まりと伝えられる。明和六年(一七六九)の京田通浜山植付并坂野辺新田開発之次第覚書(佐藤文書)では開発は明暦二年(一六五六)とあり、同年の検地帳(茨新田区有文書)によれば中田五反余・下田一町三反余・下々田八反余・畑約一町、歩米三五石余。


新田村
しんでんむら

[現在地名]玄海町大字新田

仮屋かりや湾に面する有浦ありうら川河口の村落。慶長九年(一六〇四)唐津藩主寺沢志摩守が諸浦もろうら村地先の仮屋湾の潟を埋め立てた干拓新田である。

新田村庄屋記録に「志摩守様新田御見立てに付、字滝ノ下海辺へ大石御座候を、汐の満干を段々御試めし被遊、それより大囲御取掛隣村石田村、仮屋村、牟形村の内より土石等御取被遊御築立て十八年目に御成就に相成候旨申伝候。元和九年十月より銭亀坂より御検地」とある。


新田村
しんでんむら

[現在地名]金山町卯野原うのはら

馬瀬まぜ川と弓掛ゆがけ川の合流地点に開かれた新田で、卯野原新田とも称する。南方卯野原村の枝郷で、美濃国郡上ぐじよう郡に属する。元禄(一六八八―一七〇四)頃までに開発され、元禄郷帳に村名がみえ、高九七石余、旗本遠藤領。文化七年(一八一〇)卯野原村吉兵衛と弓懸ゆがけ村嘉兵衛が新田入役となり、新田支配金として調達金一六六両二分、銀一匁余を集めている(野村文書)


新田村
にいだむら

永仁二年(一二九四)一一月一一日の伊賀頼泰譲状案(飯野八幡宮文書)によれば「好島西庄之内、預所職、同領家分、飯野郷之内付、河中子・北目・新田・矢河子者」などが嫡子光貞に譲られ、元亨二年(一三二二)一〇月二九日鎌倉幕府が安堵している。なお元久元年(一二〇四)九月一〇日の八幡宮領好島庄田地目録注進状写(同文書)によれば「新田太郎 十丁」が与えられている。永仁五年八月八日の八幡宮鳥居作料等配分状案(同文書)によれば「番匠作料厨雑事」として「三百文 白米六升 新田分」が課せられている。


新田村
しんでんむら

[現在地名]大台町新田

柳原やないばら村の西、栃原とちはら村の南、宮川の左岸にある。栃原村の新田として開発されたと思われ、宝永元年(一七〇四)新畑申改検地帳(徳川林政史蔵)に「新田村」、天保郷帳に「古ハ栃原村枝郷」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数七九、人数四〇一。


新田村
しんでんむら

[現在地名]更埴市新田

南隣は向八幡むかいやわた村、北は杭瀬下くいせけ村、東は鋳物師屋いもじや村に接し、西は千曲川を隔てて八幡やわた村と対する。村の成立は延宝七年(一六七九)(坂)木郷高帳(津山郷土館蔵)に「高九拾石三升八合 杭瀬下新田、高百六拾八石弐升五合 同所新田」とあり、幕府から松平光長に与えられた知行目録が初見で、この頃杭瀬下村から分離したものであろう。


新田村
あらたむら

[現在地名]上宝村新田

高原たかはら川中流左岸、国見くにみ山麓にある小山村。北西は上灘かんなた村、東の対岸は岩井戸いわいど村。開拓地であったための地名という。元禄飛騨国検地反歩帳によれば、高原郷に属し、高一五石余、田一町一反余・畑二町七反余。「飛騨国中案内」によれば傾斜地で地質悪く、免三割九厘、家数六(うち百姓五・門屋一)


新田村
しんでんむら

[現在地名]大栄町新田

吉岡きちおか村の南に位置する。吉岡村が開発した新田で、享保一五年(一七三〇)年貢割付状(新田区有文書)には吉岡新田とみえ、反高五一町八反余。翌一六年に検地が行われ、高八六石余で、幕府領となった(秋葉家文書)。嘉永期(一八四八―五四)に旗本能勢領となる(「年貢皆済目録」新田区有文書)


新田村
しんでんむら

[現在地名]小川町新田

南新田みなみしんでん村の北西に隣し、すな川の南岸流域にある。当村内砂川河口に設けられた口留番所が一七世紀まで荷船・漁船の航行、物資の出入りをチェックしていた。元禄国絵図に「江頭村之内新田」、「国誌」に「守山郷新田村」とあるが、ともに石高の記載はない。天保郷帳には「魚高」と記される。


新田村
しんでんむら

[現在地名]八日市場市内山新田うちやましんでん

内山村の南西にある。香取郡に属する。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高六一石余で旗本内藤領。弘化二年(一八四五)関東取締出役控帳では内山村のうち旗本伊丹領六一石余が当村分と思われ、家数七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新田村の言及

【新田】より

…本田畑とは,ふつう江戸幕府初期の慶長初年(1596)以前に行われた総検地(古検ともいう)によって石高をつけられた土地をいい,これに対し,その後に新田開発され,寛文・延宝検地や元禄検地(新検ということがある)によって新たに高付けされた田畑屋敷地をすべて新田と称した。新田は,比較的大規模なものは本村の枝村となったり新田村として独立することがあったが,その他の場合は新田高として村高の内に編入された。ただし,石盛が低くつけられるなど,あくまで本田畑とは別扱いであり,後年になって両者の差異が事実上なくなっても,土地法制上の区別は形式的に残された。…

【出作り】より

… このような性格の出作りは所有関係の安定化という立場からみればもちろんマイナス面をもっていたが,領有関係の錯綜に規定されて農民の現実の耕作地と所領とが一体化しない中世においては,避けられない現象であり,農民にとっては領主の全一的支配を制約する安全弁としての意味ももっていた。【義江 彰夫】
[近世]
 近世の新田村では,他村から入ってきた百姓を〈新田出百姓〉というのが普通であって,この場合には,古村を出て新田に入ってきた百姓を意味する。つまり出作りは通例の場合の出入作の一表現であり,出百姓は新田入村民を指すようである。…

【新富[町]】より

…宮崎県中部,児湯(こゆ)郡の町。1959年新田(にゆうた)村と富田(とんだ)村が合体,改称。人口1万8037(1995)。…

※「新田村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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