日本歴史地名大系 「徳分」の解説
徳分
とくぶん
天文一〇年(一五四一)七月五日付の大内氏奉行人連署厳島社祭礼再興下知条々(厳島野坂文書)に「一、九月九日饗膳、先年者十八徳分ヨリ勤之処、依行人給、相残徳分減少之故、如前々無之由ニ候」とある。厳島神社領として徳分収得の地であったことによる地名であろう。同下知条々では領主の収得分を表す本来の意味での「徳分」から地名に十分に分離しきっていないようにもうかがえるが、同二〇年正月二一日付の野坂藤綱安堵状(野坂文書)では「宮内大徳分松王丸四分一之事、(中略)并徳分友国名主地」とあり、弘治四年(一五五八)の検見帳(同文書)の段階では地名としての徳分が定着したと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報