厳島神社(読み)いつくしまじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「厳島神社」の意味・読み・例文・類語

いつくしま‐じんじゃ【厳島神社】

広島県佐伯郡宮島町にある神社。旧官幣中社。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心(たごり)姫命、湍津(たぎつ)姫命ほか。三柱。推古天皇元年(五九三)の創祀と伝えられる。特に、平清盛はじめ平氏一門に厚く崇敬され、「平家納経」のほか、社殿、回廊など国宝が多い。世界遺産に登録されている。安芸国一の宮。伊都岐島神社。安芸の宮島。宮島さん。

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デジタル大辞泉 「厳島神社」の意味・読み・例文・類語

いつくしま‐じんじゃ【厳島神社】

広島県の厳島にある神社。主な祭神は市杵島姫命いちきしまひめのみこと田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと国宝平家納経など多数の文化財を所蔵。また、社殿・回廊などの多くも国宝。平成8年(1996)世界遺産(文化遺産)に登録された。安芸国一の宮。旧官幣中社。俗称、安芸あきの宮島。

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日本歴史地名大系 「厳島神社」の解説

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]宮島町

厳島(宮島)の北東部、弥山みせん北麓に、北西に開く小湾の奥に鎮座する。祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命。相殿に国常立尊・天照大神・素盞嗚尊を祀る。旧官幣中社。伊都岐島神社とも記す。

主神を祀る本殿は玉の御池とよばれる州潟の上に建立され、背後は樹木の茂る後園うしろぞのの森、正面海中には大鳥居が立つ。本殿前には幣殿・拝殿・祓殿・高舞台・平舞台が海に向かって一直線に並び、海に突き出した平舞台の左右には門客かどのまろうど神社が左右対称的に一座ずつ鎮座する。これらの諸殿を取巻いて朱塗の回廊が左右に延びるが、本殿向かって左側には朝座屋あさざやまろうど神社が、右側には大国おおくに神社・天神社・能舞台・そり橋・なが橋などがある。

〔創建〕

弥山を主峰とする島の山容からして、原始において信仰の対象とされたことは十分に考えられるが、文献上の初見は「日本後紀」弘仁二年(八一一)七月一七日条に「安芸国佐伯郡速谷神・伊都岐島神、並預名神例、兼四時幣」とある記事である。「三代実録」貞観元年(八五九)三月二六日条には「伊都岐島中子天神」が従五位下に叙せられたことがみえ、同九年には伊都岐島神が従四位下、伊都岐島宗形小専神が従五位下に叙せられている。この頃はまだ祭神が市杵島姫などに固定されていず、社殿も島内にあったかどうかは不明で、後世に外宮と称された地御前じごぜん(現廿日市町)などが遥拝所とされていたといわれる。

「延喜式」神名帳には「伊都伎島神社名神大」と記され、安芸国式内社三社の一とされており、平安時代中頃には安芸国一宮としての位置を確立したとみられる。祭祀権は安芸国に佐伯部が設置された時にその管掌者とされた佐伯直の後裔といわれ、佐伯郡に勢力をもった佐伯氏が掌握した。

〔平清盛と厳島神社〕

平清盛は久安二年(一一四六)から一時期を除き保元元年(一一五六)まで安芸守であったが、この間に現地の在庁官人や社寺と深い結び付きが生じたことは確かである。「平家物語」長門本の「厳島次第之事」によれば、紀州高野山大塔造営に当たっていた清盛が、高野山で厳島の社殿造営を暗示させる宗教的体験を受けたとあり、これが清盛の厳島信仰の端緒になったとされる。永暦元年(一一六〇)八月清盛は「年来之宿願」(山槐記)であった厳島社に参詣。以後文献に明らかなものだけでも前後一〇回参詣している。また承安四年(一一七四)には後白河法皇が建春門院とともに社参(玉葉)、治承四年(一一八〇)には高倉上皇が三月と九月の二回にわたり社参している(玉葉、山槐記)

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]中区羽衣町二丁目

吉田新田の北一ッ目よしだしんでんのきたひとつめ、現国鉄根岸線関内かんない駅の西、国道一六号の南の裏通りにある。祭神杵島姫命・多紀理姫命・多岐都姫命。

横浜村の鎮守、もと弁天社と称し、横浜村の洲乾しゆうかん島とよばれる出洲(現弁天通六丁目・本町六丁目)にあった。縁起によれば、当時の神体は伊豆国土肥椙山どいすぎやま(現足柄下郡湯河原町)にあったものを治承年間(一一七七―八一)に源頼朝が宿願成就の報賽のために洲乾島に新殿を造営して祀ったところから杉山すぎやま弁財天とも称され、また境内の清水がわき出る七池から清水弁天ともよばれ、さらに関東管領足利氏満が紺紙金泥の般若心経を奉納し、太田道灌が社殿を再建したともいう。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]三次市十日市町

通称弁天さん。昭和五一年(一九七六)馬洗ばせん川護岸工事のため十日市とおかいち上新かみしん町に移ったが、近世には岩神いわがみ渡のあったところ、馬洗川左岸に突出する巨大な岩盤の上に鎮座していた。「芸藩通志」は「勧請のはじめ詳ならず」と記すが、三次町の「国郡志下調書出帳」は「或説ニ」として「三次郡福田村上川立村境ニ岩上ト申地名有リテ此処ヨリ厳島明神ヲ御勧進仕候(中略)御紋并ニ祭日ナド厳島ニ同ジ、町裏川岸弐丈余之岩上ニ御鎮座」と記す。享保七年(一七二二)写の三次郡覚書(広島大学蔵)によると、一間四方の小さな社であった。

十日市町ほん町にあった真言宗万福まんぷく寺はもと三次郡羽出庭はでにわ(現双三郡三和町)にあったが、寛永一〇年(一六三三)「町御奉行南部太郎左衛門様御時弁財天為神宮寺ト当地ヘ御引被成候由」(前記書出帳)と伝えている。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]左京区静市市原町

鞍馬くらま川の南に鎮座。市杵島姫いちきしまひめ命を祭神とし、明治維新前までは粟穂弁財天あわぼべんざいてん・厳島弁財天と称し、野中のなか村の産土神であった。旧村社。「山州名跡志」は創建を永享二年(一四三〇)と伝え、次の霊験譚を記す。

<資料は省略されています>

鞍馬川をめぐる水の信仰が起源であることがうかがえる。境内には本殿のほかに拝殿があり、空海作と伝える天女像が安置され(同書)、祭礼は三月一五、一六の両日に行われた。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]萩市大字椿東 越ヶ浜

明神みようじん池の西畔、かさ山の東麓に鎮座。祭神は市杵島姫命で田心姫命と湍津姫命を配祀。かつてはこしはま明神社・厳島明神社ともいわれた。

社伝によれば貞享三年(一六八六)安芸の厳島(現広島県)より勧請という(「八江萩名所図画」では延宝九年)。旧暦六月一七日の夏祭には安芸の本社と同じように管弦祭(御管絃おかげんと俗称)が執行され、神輿を船に乗せて海上を神幸する。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]枝幸郡枝幸町新栄町

旧村社。祭神は市杵島姫命・聖徳太子・藤原三吉之命。例祭日は七月一五日。「北海道神社庁誌」によると、一八一九年(文政二年)ソウヤ場所の請負人である近江国藤野家の信仰する安芸厳島神社の分霊を吉井茂兵衛なるものが奉遷し、小社を建立したのに始まるという。二九年に松前城下虎向どらめき町の住人三上伝吉なるものが社堂を改築したという。明治二七年(一八九四)頃、小樽住吉神社社司星野十九七が社掌となった。翌二八年本殿を修理、社務所を建築し村社に列した。大正一二年(一九二三)神饌幣帛供進神社に指定。昭和一五年(一九四〇)五月の枝幸大火で社掌古屋盛信が焼死、社殿も焼失した。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]君田村藤兼

藤兼ふじかねのうち卸子おろしごとよばれる小丘の麓にある小祠。昔この地で厳島明神が流産し、一夜のうちに丘ができたので、地名が卸子となったといい、藤兼村の「国郡志下調書出帳」によれば近くにある高さ二間・周囲二〇間余の丘を明神の膝突ひざつき山とよび、神之瀬かんのせ川の南山家やまが(現三次市)飛の跡とびのあとより厳島明神が飛来し膝をついたところという。

なお同書出帳はこの神社の神体について、寛政一〇年(一七九八)三月二日、旅の女がある農家へ泊り、「其夜明神ノ御告ケ有之と申狂気のごとく相成リ、夜中垢離を取翌三日早朝(中略)社ノ後ヲ掘リ穿岩ノ間より神躰を掘出シ」たといい、「御神躰御丈ケ八寸斗リ之木像ニ殊ノ外朽候得共女体ト相見申候」と記す。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]会津若松市一箕町八幡 弁天下

飯盛いいもり山西麓、くち堰のそばにあり、かつては宗像むなかた神社といった。鎮座の年代は不詳。祭神は市杵島姫命。旧郷社。通称弁天様。縁起によれば、宗像神の化した霊妃の命ずるところに応じた一人の農夫と三人の豪農が、永徳年中(一三八一―八四)当社を建立したという。造立の際に牛に乗った童女が器に小豆飯を盛って現れ、役夫がみな食べても尽きなかった。童女は牛をひいて南へ数十歩行ってみえなくなった。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]釧路市米町一丁目

弁天様と通称される。旧県社。祭神は市杵島姫命・阿寒大神・稲荷大神・金刀比羅大神・海津見大神・猿田彦大神・秋葉大神。一八〇五年(文化二年)クスリ場所請負の佐野孫右衛門が漁業安全のため安芸厳島神社より分霊を勧請、真砂まさご町の社地四九〇坪に社殿を造営したのが始まりという(厳島神社略記)。阿寒大神はアイヌが古くからアカンカムイとして信仰してきたと伝える。明治二〇年(一八八七)神霊をこめ町の金毘羅堂に移し、同二四年同町に社殿が新築されて移転(釧路市史資料集)

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]寿都郡寿都町字歌棄町 有戸

寿都湾の東岸、有戸あると地区に鎮座。近世のヲタスツ場所の運上屋に近く祀られていた。旧郷社。祭神は市杵島姫命・倉稲魂命・志那都比古命ならびに志那都比売命。近代以前は運上屋元の弁天社として、ヲタスツ場所全体の海上安全・漁業円満などの祈願を引受けていた。一八三二年(天保三年)五月場所請負人の柳屋田付庄兵衛が再建したという(明治神社誌料)。「蝦夷日誌」(二編)に弁天社とみえ、「運上屋の傍に有」とする。一八六三年(文久三年)以降当社に箱館在有川ありかわ(現上磯町)神明宮厄介須田糾が越年在住し、明治二年(一八六九)その地所は「神祇守護所」として永御免地とされた(「各県支配地十三ヶ条取調書」道立文書館蔵)

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]天塩郡天塩町字川口 川口基線

天塩町市街地の北端にある。祭神は市杵姫命。一八〇四年(文化元年)九月福山の豪商栖原小右衛門が当地の高所に一小祠を建て氏神として弁天を奉斎したという(新天地の天塩)。テシホ場所の請負人が豊漁を祈願して弁財天を祀ったもので、当初は海岸通かいがんどおり五丁目にあり、弁天社とよばれていた(廻浦日記)。一八六〇年(万延元年)出羽国鶴岡藩の天塩詰代官原半右衛門のテシホ風景図(山形県鶴岡市原家蔵)では日本海に注ぐ河口部に弁天堂があり、鳥居と数本の幟が描かれている。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]紋別市花園町一丁目

紋別公園の東側山裾にある。旧郷社。祭神は市杵島姫命。航海安全と漁業繁栄を祈願して祀られ、市全域の鎮守でもある。初め市街の北東端でオホーツク海に延びる弁天べんてん岬に祀られ、弁天社と称された。一七四〇年代(寛保年間)にソウヤ場所請負人村山伝兵衛により創建されたともいう(状況報文)松浦武四郎は弁天社について「華表、石とうろう有」(「蝦夷日誌」二編)、「弁天社一棟美々敷立たり」(廻浦日記)と記している。明治九年(一八七六)厳島神社と改称(紋別市史)

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]増毛郡増毛町稲葉町

稲葉いなば町三丁目にある。祭神市杵島姫命。旧郷社。一七五三年(宝暦三年)村山伝兵衛がマシケ場所請負人となり、ホロトマリに運上屋を設けたとき、運上屋の守神として弁財天が祀られたという。現増毛港の防波堤の付根にあたる地(のちの弁天町)であった。九六年(寛政八年)場所請負人が伊達浅之助に替わり、弁財天は伊達林衛門に引継がれた。一八一六年(文化一三年)七月安芸国厳島神社より、市杵島姫命の分霊を勧請し、六一年(文久元年)五月社殿を再建した。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]下関市上新地町一丁目

江頭えがしら山の北東、小高い丘の上に鎮座。祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命。旧郷社。

社伝によれば、平家一門が安芸の厳島神社(現広島県佐伯郡宮島町)の分霊をいただいて守護神として船中に祀っていたが、壇之浦だんのうらの合戦で敗戦。その後磯辺に漂着していた神霊をみつけ文治元年(一一八五)社殿を建立し祀ったのに始まるという。「注進案」には「此御神は源平大乱に平家没落して後、富田・富成・刀禰・中島の家共伊崎うらに住、祈念ありて、鎮守と定められし四社のひとつなりと申伝へ候事」とみえる。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]久慈市侍浜町 麦生

久慈湾の北東部、弁天べんてん崎の松林の中に鎮座。旧村社で、祭神は市杵島姫命。安永三年(一七七四)麦生の住人で百石船の船頭であった舛森丹治が八戸のさめ港より出航し、海産物を関西方面に運んだのち、安芸の宮島(現広島県佐伯郡宮島町)に寄港して大神を勧請し、翌四年三月帰港して弁天崎に祀ったとされる(九戸郡誌)

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]旭村子生

子生こなじの北の台地下、三方を山林に囲まれる谷津に鎮座する。祭神は市杵島姫命。旧村社。「子生の弁天様」とよばれる。文永二年(一二六五)正月、安芸厳島神社より分霊を迎えたと伝えられるが、文化六年(一八〇九)の御累書年代記写(酒井英一氏蔵)には「承暦二年 子生山弁才天之此訳造谷村竜蔵院硯録ニ在之由也」とあり、すでに承暦二年(一〇七八)には弁財天が祀られていたという。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]八千代町佐々井

簸川ひのかわの右岸山際の高台に鎮座。祭神は宗像三女神。旧村社。「安芸国神名帳」に吉田郡十二前の一つとして「四位佐々比明神」とあるのに比定される。近世には佐々井ささい明神とよばれたが、「国郡志下調書出帳」は大明神社として「御神体御幣、玉殿五ツ御座候夫レ故カ五社明神と申候、玉殿の裏に文和二年と御座候、此明神は輝元公吉田御在城之節厳島より御勧請と申伝候、尤社建立棟札に右馬頭大江朝臣輝元武運長久天正二年甲戌十一月六日と御座候、左候得輝元公御勧請社御建立神と奉存候」と記す。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]八戸市鮫町 鮫

かぶ島の山頂に位置する。祭神は市杵島姫命で、旧村社。明治初年まで弁財天と称したが、廃仏毀釈により弁財天像を浮木ふぼく寺に移し、現社名に改めた。八戸藩日記の寛政二年(一七九〇)二月七日条に「蕪嶋弁天」とあり、毎年正月国家安全・五穀成就・漁乞の祈祷を行うことが命ぜられている。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]福地村福田 古館

福田ふくだの南西、森越もりこし(現名川町)へ至る道路の北側沿いに位置する。祭神は市杵島姫命で、旧村社。藩政期には弁才天堂とよばれていた。宝暦五年(一七五五)の堂林寺門間数改書上帳(常泉院文書)に「弁財天堂」とあり、享保九年(一七二四)佐藤小右衛門の建立とされる。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]松山市神田町

三津みつ町の西端に位置する。祭神は田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命。旧郷社。

社伝によると、初め筑紫国から前記の宗像むなかた三神を勧請し、文武帝の時東山に社殿を造営し、さらに聖武帝の時に安芸国から厳島の神を勧請したという。この地域に勢力を張った河野通春が、応仁元年(一四六七)に社殿を造営し、四時の祭典を執行したと伝えられる。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]西根町大更 大久保

大更おおぶけ西部、もと大更新田役所のあった所近くに位置し、祭神市杵島姫命。「御領分社堂」に弁財天堂とみえ、大更新田の鎮守の社として勧請され、宝永年中(一七〇四―一一)には大更の両沼りようぬまに鎮座し、新田奉行から年に稗一駄片馬の扶持を得ていたが、元文三年(一七三八)現在地に遷宮。

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]福山市大門町野々浜 鶴山

伊都杵島大明神と称し、鎮座地は野々浜ののはま新涯の孤丘で、かつては大門だいもん湾内の島であったと考えられ、祭神は伊都杵島姫命であろう。社伝に、寛文九年(一六六九)大旱魃があり、当地の伊地知文太夫が雨乞をして霊験があり、また元禄五年(一六九二)夏の大旱魃に再び藩の代官高橋儀右衛門が祈って瑞雨を得たという(福山志料)

厳島神社
いつくしまじんじや

[現在地名]古宇郡神恵内村大字神恵内村

神恵内市街の西側山麓に鎮座。祭神は市杵島大神・大綿津見大神・大国主大神。旧郷社。一七五二年(宝暦二年)松前藩主松前資広よりフルウ場所の総鎮守として大弁財天の社号を贈られたことが始まりと伝える。一八五五年(安政二年)総鎮守厳島宮となり、明治四年(一八七一)社号を厳島神社とした。

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改訂新版 世界大百科事典 「厳島神社」の意味・わかりやすい解説

厳島神社 (いつくしまじんじゃ)

広島湾南西部に浮かぶ厳島(広島県廿日市市,旧宮島町)に鎮座。市杵島姫(いちきしまひめ)命,田心姫(たごりひめ)命,湍津姫(たぎつひめ)命をまつる。旧官幣中社。祭神〈伊都岐島(いつきしま)神〉は,811年(弘仁2)名神に列し四時幣に預かり,神階は867年(貞観9)従四位上に昇叙。《延喜式》で名神大社に列し,のち安芸国の一宮となる。平安時代末,大宮,中御前(中宮),客(まろうど)宮の3座となり,のち宗像神社と同じ市杵島姫命以下3姫神とみなされる。海の神で竜王の娘といわれ,神仏習合も進み本地仏は観音,大日,毘沙門とされるが,厳島が港湾都市として栄える中世後期には施福の女天弁財天とされる。社殿は推古天皇のときの創建と伝えるが,現在の規模となったのは平清盛の安芸守任官が縁で平氏一門の崇敬を得,その援助で神主佐伯景弘が1168年(仁安3)大修築を加えた時期である。平氏時代には社領が急増し,法皇,上皇や貴族も参宮し,《平家納経》をはじめ平安文化の成果を多く宝物中にとどめる。鎌倉時代に再度の火災にあうが,鎌倉幕府の崇敬もあつく,神主を佐伯氏から関東御家人の藤原氏に交代させ,1241年(仁治2)社殿を再興した。荘園も寄進されたが,13世紀中葉には安芸国国衙領中で御供田,御読経免あわせて100町余の免田も給せられている。足利氏も尊氏・義満が参宮し,社領も寄進している。戦国時代一時押領されるが,大内氏は神事再興に熱心で,それをうけた毛利氏時代社殿のほとんどが修復されており,社領も5000石を超えていた。福島・浅野時代には社領は没収されるが毎年1000石余支給された。司祭者は神主のもとに社人,内侍(ないし),供僧がいた。内侍は舞姫もつとめたが本来巫女で,所領のほか社頭にささげられた散銭散米の収得権を持ち中世末まで権威を保持した。中世末に本宮棚守職の棚守房顕が大内・毛利氏と結んで権勢を持ち,供僧を率い弥山(みせん)を管理した大聖院や社殿の修理造営権を握った大願寺とともに近世まで神社の諸事を統轄した。祭礼は春秋の例祭のほか,旧6月17日夜対岸の地御前(じごぜん)神社(外宮)に渡御する管絃祭,旧7月18日の玉取祭などがある。また平安時代以来の舞楽が奉納され,お島巡り(お烏喰(おとぐい))式も伝存する。宝物は経典類,舞楽面,檜扇,鎧,刀剣など質・量ともに優れて数千点に及び,国宝・重要文化財に指定されたものが多い。1996年世界文化遺産に登録された。
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社殿の主要部は,海浜にたつ本社(大宮)と摂社客神社で,両社はともに本殿・幣殿・拝殿を中心として,ほぼ同じ構成をもつ。本社は前方海中の大鳥居(1875建立)に向かって北西に面するが,客神社はこれと直交する軸をもち南面する。この両社殿を中心に舞台・楽房・朝座屋などが海浜に配され,これらは曲折する回廊によって結ばれている。社殿が現在のような規模になったのは,平安時代末に平家一族が当社を尊崇したのを契機としており,それ以前は小規模であったらしい。本社の本殿は棟札(むなふだ)によって,1571年(元亀2)の造営になることが明らかであるが,このほかの社殿は,蟇股(かえるまた)や組物など細部に平安末ないし鎌倉時代の様式が混入しており,すべてを新築したのでなく,部分的な修造,あるいは古材を利用しての再建などが行われたらしく,個々の建立や修理の事情は単純でない。本社本殿は9間の母屋の前後にひさしを付けた,いわゆる両流(りようながれ)造であるが,平面は7間の母屋の四周にひさしを付けた形式になっている。本殿の前に入母屋造の拝殿がたち,両者の間を両下造の幣殿でつなぐ。拝殿の前面に接続して妻入りの祓殿がたつ。祓殿は5間の母屋の三方にひさしを付けた妻入りの建物で,正面中央で軒を少し上げた入母屋造の特徴ある姿をみせる。屋根はすべて檜皮(ひわだ)でふく。摂社客神社も,本社と同様の構成であるが,規模がやや小さい。海浜にたつ以上の建築のほか,境内には多くの建築がある。主なものに摂社大国神社本殿,天神社本殿,大元神社本殿,末社荒胡子(あらえびす)神社本殿,豊国神社本殿(千畳閣),多宝塔があり以上は16世紀の建立,五重塔は15世紀,宝蔵は室町中期の建立である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「厳島神社」の意味・わかりやすい解説

厳島神社
いつくしまじんじゃ

広島県廿日市(はつかいち)市宮島(みやじま)町に鎮座。古くは伊都伎嶋(いつきしま)神社とも記し、また厳島大明神(だいみょうじん)とも称した。市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祀(まつ)る。古代には周囲約31キロメートルの宮島そのものが神とされ、人も住むことを許されない神聖な島とされた。社殿が海水のさしひき(干満)する所に建てられているのもそのためである。宮島には中世以降人家が建てられたが、耕作をしない、死者を埋葬しない風習は現在も守られている。創建年代は不詳であるが、社伝では、推古(すいこ)天皇のとき、佐伯郡の住人佐伯鞍職(さへきくらもと)が神託を受け、社殿をつくり祀ったことに始まるという。811年(弘仁2)7月名神(みょうじん)社に列し、四時(しじ)の幣帛(へいはく)を奉る社とされ、859年(天安3)正五位下より従(じゅ)四位下に、さらに867年(貞観9)従四位上に叙され、延喜(えんぎ)の制で名神大社とされた。その後、さらに朝野の厚い崇敬を受けて、安芸(あき)国(広島県西半部)一宮(いちのみや)とされた。平清盛(きよもり)が出てからはその一門がことに崇敬し、1174年(承安4)3月には後白河(ごしらかわ)法皇が建春門院平滋子(しげこ)とともに御幸し、1178年(治承2)高倉(たかくら)天皇の中宮建礼門院平徳子(とくこ)懐妊ののちは、清盛は皇子出産を願って月参をした。翌年、朝廷で二十二社の列に加えられようとしたが、これは果たされなかった。平家滅亡のあと、源頼朝(よりとも)も崇敬して社領を寄進し、修造料を寄せ、以降鎌倉幕府も保護した。鎌倉時代に火災により多くの建物を焼失したが、室町時代に大内氏、毛利(もうり)氏が維持に努め、ことに毛利元就(もとなり)は1572年(元亀3)将軍足利義昭(あしかがよしあき)の命を受けて、本社拝殿、回廊、客(まろうど)神社以下を古例のままに造営した。また毛利輝元(てるもと)も社領を寄進、さらに1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の命を受けて大経堂(千畳閣)を造営した。江戸時代にも徳川将軍や広島藩主浅野氏がよくその維持に努めた。1871年(明治4)国幣中社、さらに1911年(明治44)官幣中社とされた。

 本社(本殿、幣殿(へいでん)、拝殿、祓殿(はらいでん))のほか、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)を祀る摂社客神社(本殿、幣殿、拝殿、祓殿)、回廊は国宝建造物で、平清盛造営当時の規模をよく伝えている。

 そのほか、大鳥居(1875再建)、五重塔、能舞台など多くの国指定重要文化財がある。また社宝には、平家納経1具、法華経(ほけきょう)30巻、彩絵檜扇(ひおうぎ)などの国宝や、鎧(よろい)、太刀(たち)など、国指定重要文化財を多く蔵している。1996年(平成8)には、厳島神社の建造物群と前面の海、背後の森林とが、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産)。例祭は6月17日のほか、4月15日の桃花(とうか)祭、陰暦6月17日中心の管絃(かんげん)祭、陰暦7月18日の玉取(たまとり)祭、12月31日の鎮火祭など豪華な祭礼が多く、舞楽(ぶがく)、能楽が年中行事のなかで行われる。また、島を一周し、末社を巡る「御島巡り」は、厳粛な祭事である。

[鎌田純一]


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百科事典マイペディア 「厳島神社」の意味・わかりやすい解説

厳島神社【いつくしまじんじゃ】

広島県廿日市市に鎮座。旧官幣中社。市杵島姫(いちきしまひめ)命,田心姫(たごりひめ)命,湍津姫(たぎつひめ)命をまつる。創立は推古朝の593年と伝え,延喜式内の名神大社とされ,安芸(あき)国一宮。平清盛の信仰をうけ,《平家納経》などの奉納,壮麗な社殿の建築により隆盛におもむいた。春秋例祭のほか,旧6月17日の管絃祭(かんげんさい)は有名。古来,海上交通安全の女神,また伎芸神として民間に信仰されている。国宝の彩絵檜扇(ひおうぎ)や紺糸威鎧,重要文化財の山姥図・舞楽面などがあるほか,多数の古文書を所蔵する。1996年世界文化遺産に登録。
→関連項目絵馬音戸ノ瀬戸狩野松栄世界遺産条約瀬戸内海国立公園玉取祭廿日市[市]広島[県]船祭宮島宮島[町]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「厳島神社」の意味・わかりやすい解説

厳島神社
いつくしまじんじゃ

広島県廿日市市厳島にある元官幣中社。祭神イチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)ら 3神。創立は社伝に推古1(593)年とあるが,平安時代末,平清盛の援助によって今日の規模に定まった。社殿の大半は潮干潟の上に建てられ,満潮時には海中に浮かんだ姿となる。清盛時代の建造物は 2度の火災にあい,仁治2(1241)年に再建,本社社殿(国宝)はさらに元亀2(1571)年大修理を受けている。国宝『平家納経』ほか優れた社宝を多く所蔵する。毎年 7月に行なわれる管絃祭は有名。朱塗の建築群が海上に展開する景観が評価され,1996年世界遺産の文化遺産に登録された。

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世界遺産詳解 「厳島神社」の解説

いつくしまじんじゃ【厳島神社】

1996年に登録された世界遺産(文化遺産)で、広島県廿日市(はつかいち)市宮島町にある。瀬戸内海に浮かぶ宮島(別名、厳島)は、日本三景の一つに数えられる。この神社は、平安時代末期、武士による新しい社会体制を築いた権力者、平清盛ゆかりの建物である。海の上に配置された建造物の多くは、13世紀までに再建されたものであるが、創建時の様式が忠実に復元されており、平安時代の寝殿造りの特徴を顕著に表している。色鮮やかな朱塗りの社殿が海に向かって鳥が羽を広げるように伸び、本社本殿など37棟の建物が300mに及ぶ回廊で結ばれている。満潮時には大鳥居とともに海に浮かんで見える、世界でも類を見ない宗教施設であり、日本古来の精神性を伝える特異な建造物と景観が評価され、世界遺産に登録された。◇英名はItsukushima Shinto Shrine

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「厳島神社」の解説

厳島神社
いつくしまじんじゃ

伊都岐島(いつきしま)神社とも。広島県廿日市市宮島町に鎮座。式内社・安芸国一宮。旧官幣中社。祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)命・田心姫(たごりひめ)命・湍津姫(たぎつひめ)命の宗像(むなかた)3女神。811年(弘仁2)名神と四時の幣帛にあずかる。1017年(寛仁元)の奉幣で安芸国では当社のみがあげられ,この頃から一宮としての地位が確立したとされる。平清盛の安芸守就任以降,平氏一門の崇敬を集めて隆盛。この頃の神主は佐伯姓だったが,承久の乱後,藤原姓神主となった。戦国期以降,大名の庇護下にあったが,民間でも広く信仰された。例祭は旧暦6月17日,管絃祭で知られる。諸建築・所蔵文化財の多くが国宝・重文。とくに海中の大鳥居や平家納経が著名。厳島文書を所蔵。厳島は国特別史跡

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事典 日本の地域遺産 「厳島神社」の解説

厳島神社

(広島県廿日市市宮島町)
世界遺産」指定の地域遺産(1996(平成8)年)。
厳島神社は瀬戸内海の島を背後にして、海上に木造建物が建ち並ぶ平清盛ゆかりの神社。社殿背後の宮島(厳島)は、日本三景の1つ(特別史跡及び特別名勝指定)。12世紀に創建されその後焼失、1241(仁治2)年再建。創建時の様式が忠実に再現され、平安時代の寝殿造りの特徴を表している。37棟の建物が300mに及ぶ回廊で結ばれている

厳島神社

(広島県廿日市市宮島町1-1)
日本夜景遺産」指定の地域遺産。
世界遺産登録、国宝にも指定されている海上に建つ神社。海に浮かぶ大鳥居をはじめ、社殿、五重塔、参道や西松原沿いの石灯篭がライトアップされる

厳島神社

(広島県廿日市市宮島町1-1)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「厳島神社」の解説

厳島(いつくしま)神社〔広島県〕

広島県廿日市市にある神社。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。延喜式内社。安芸国一之宮。瀬戸内海の宮島(厳島)北東に位置し、沖合約200mに建つ大鳥居や、回廊で結ばれた寝殿造の海上社殿で知られる。国宝の本社本殿をはじめ、数多くの文化財を保有。国の特別史跡かつ特別名勝に指定、またユネスコの世界文化遺産にも登録されている。

厳島神社〔大阪府・京都府〕

大阪府枚方市、京都府との境界付近にある神社。本殿に隣接する末社春日神社本殿は室町時代の建築と見られ、国の重要文化財に指定。

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旺文社日本史事典 三訂版 「厳島神社」の解説

厳島神社
いつくしまじんじゃ

広島県佐伯郡宮島町にある神社
市杵嶋 (いちきしま) 姫を主神とし諸神を合祀。平安時代から宮廷の信仰が厚い安芸 (あき) 国の一宮。平清盛が安芸守在任中に崇敬し,平氏一門の支援により現在の規模となった。一門が奉納した『平家納経』は有名。海中に鳥居があり,海上より拝することもできる。航海の守護神として今日も繁栄。1996年世界文化遺産に登録された。

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事典・日本の観光資源 「厳島神社」の解説

厳島神社

(広島県廿日市市)
日本三弁天」指定の観光名所。

厳島神社

(兵庫県神戸市灘区)
灘百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の厳島神社の言及

【安芸国】より

…また安芸国は海外遣使のための大船の建造でも有名である。12世紀ころ諸国で一宮が指定されたが,安芸国一宮は厳島神社であった。保元の乱前後のころ平清盛と弟2人があいついで安芸守となったが,そのあと安芸国は平氏の知行国となった可能性が濃い。…

【佐伯氏】より

…《日本書紀》景行紀によれば,日本武尊の東征の際,俘虜として連れ帰った蝦夷を播磨,安芸,阿波,讃岐,伊予などに分置したのが佐伯部の起りとされている。安芸の佐伯氏は国造に連なる雄族として古くより厳島神社の祭祀権を担い,律令制下では佐伯郡司に任じられ,代々厳島社神主を世襲するとともに,一族を安芸国衙に分出させる(在庁官人田所氏)など,勢力を築いた。平安末期,平氏の後楯を得てかつてない権勢を振るった厳島社神主佐伯景弘は,同氏を代表する人物であった。…

※「厳島神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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