佐伯郡(読み)さえきぐん

日本歴史地名大系 「佐伯郡」の解説

佐伯郡
さえきぐん

面積:七八〇・九〇平方キロ
湯来ゆき町・吉和よしわ村・佐伯さいき町・五日市いつかいち町・廿日市はつかいち町・大野おおの町・宮島みやじま町・沖美おきみ町・能美のうみ町・大柿おおがき

県の西端にあり、北は島根県および山県郡、東は広島市に接し、南は瀬戸内海を望み、西は山口県、沿岸部西端は旧郡内であった大竹市に接する。北部は標高九〇〇メートル以上の芸北げいほく山地と五〇〇―七〇〇メートルの佐伯豊平さえきとよひら高原で、山間を流れる水内みのち川・吉和川・とうげ川・木野この(小瀬川)の流域と盆地状の平地とに集落が展開する。沿岸部は標高一六〇メートル以下の丘陵と平地で、山間から流れ出る八幡やわた(河内川)おかした川・可愛かわい川・御手洗みたらい川などの小河川が形成した沖積平野と、近世以後に発達した海岸埋立地に市街地が密集する。南方海上には大野ノ瀬戸を隔てて厳島、さらに厳島海峡・奈佐美なさび瀬戸を隔てて能美島がある。

郡名は、「日本書紀」景行天皇五一年八月四日条に「是今、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり」とある「佐伯部」による。古代の郡域は、東は太田おおた川、西は大竹おおたけ(現木野川)の間で、現広島市安佐南区の大部分と同西区の一部および大竹市を含む大郡であったが、一二世紀中葉には己斐こい(現西区)以西が佐西ささい郡、以東が佐東さとう(現安佐南区の大部分)に分れた。その後寛文四年(一六六四)に佐東郡が沼田ぬまた郡と改称したのに対し、佐西郡は佐伯郡の古名に復し、ほぼ現在の郡域が確定した。「和名抄」は「佐倍木」と訓ずる。

〔原始〕

先土器時代の遺跡に吉和村冠高原かんむりこうげん遺跡があり、石器製作所の跡が確認されている。縄文遺跡は、沿岸部五日市町廿日市町の低丘地に比較的数多くみられ、盆地状の佐伯町でも数ヵ所が確認されている。なかでも五日市町の利松住吉としまつすみよし遺跡・円明寺えんみようじ遺跡、廿日市町の地御前南じごぜんみなみ遺跡などは、当時の狩猟・漁労の生活をよく伝えている。地御前南遺跡からは大分県ひめ島産の黒曜石が出土。弥生遺跡は前記平野部のほかに山間や島々でも数ヵ所確認されている。うち五日市町の工神社たくみじんじや遺跡からは籾の圧痕がある弥生中期の土器が出土し、農耕文化の定着を裏付ける。

古墳は、五日市・廿日市両町の丘陵部だけで三〇ヵ所以上が確認されるが、いずれも小規模。五日市町の三宅みやけ古墳から鉄製の武具・馬具・刀身のほかに玉類・金環・銀環などの副葬品が、同町高井たかいからは製神獣鏡が出土している。当郡の文化の中心は、五日市・廿日市両町の平地部を中心に、山間部・島嶼部へと広がっていったようで、初めは九州系の文化、のちに大和系の文化が入ってきたとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報