志和東村
しわひがしむら
[現在地名]東広島市志和町志和東
生城山の南から東側を取巻くように北流する東川とその支流の河谷を村域とする。北の志和堀村、西南の七条樺坂村、東北の内村とはそれぞれ谷でつながる。「志芳庄東村二分方」を天野顕忠に返付する旨の明徳元年(一三九〇)一〇月一一日付大内義弘安堵状(天野毛利文書)があるが、すでに建長八年(一二五六)七月三日付将軍家政所下文(尊経閣文庫蔵)に「志芳庄内西村等地頭職」とみえるので、この頃「志芳庄東村」の称もあったと思われる。ただしこの場合には内村・七条樺坂村を含むことも考えられる。鎌倉末期、志芳庄一方地頭として天野一族と思われる肥後五郎左衛門尉政行・安芸三郎次郎遠政の名が知られ(正和三年四月一一日付「六波羅御教書案」教王護国寺文書)、いずれかが東村地頭にあたると推定され、南北朝初頭には天野顕義が来住して東村地頭職を有し、米山城に拠った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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