日本歴史地名大系 「七条樺坂村」の解説 七条樺坂村しちじようかばさかむら 広島県:東広島市七条樺坂村[現在地名]東広島市志和(しわ)町七条椛坂(しちじようかぶさか)志和盆地を東北流する関(せき)川の右岸平地に位置する七条と、その東、南流して瀬野(せの)川に注ぐ椛坂川沿いの谷にある樺坂とからなる。両地区を分断するように冠(かむり)村があり、北は志和西(しわにし)村。鍋(なべ)山(四一二メートル)西の政光(まさみつ)谷、南麓瀬野川沿いの則重(のりしげ)谷は枝郷であった。七条は奥屋(おくや)村内の六条(ろくじよう)、志和西村内の八条(はちじよう)とともに、志和盆地に条里制の布かれていたことを示す地名といえる。中世は志芳(しわ)庄に属していたと思われるが、史料上の初見は弘治四年(一五五八)九月二日付天野隆重同元明連署契状(天野毛利文書)で、「七条かは坂之事、少輔四郎拝領候」とあり、この頃すでに七条・樺坂両地区がまとまった所領として扱われ、天野元友(隆重の子)と思われる少輔四郎の所領であったことが知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by