日本歴史地名大系 「志屋村」の解説 志屋村しやむら 大分県:大野郡朝地町志屋村[現在地名]朝地町梨小(なしこ) 志屋・温見(ぬくみ)栗栖(くりす)村の北東、男岳(おだけ)山(六五二メートル)北西麓にある。郷帳類に村名はみえないが、「豊後国志」に志屋とある。旧高旧領取調帳では高一五七石余。寛文九年(一六六九)には地味不良のため開畑一反につき四升掛となる(朝地町史)。安永七年(一七七八)には梨原組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。文化四年(一八〇七)七月小庄屋以下四六人の村民が日田へ逃散したが、帰村させられたうえ小庄屋が永牢となるなどの処罰を受けた(大分県史)。 志屋村しやむら 熊本県:阿蘇郡小国町志屋村[現在地名]小国町北里(きたざと)杖立(つえたて)川沿いに広がり、中世には椎屋とも記され、元徳二年(一三三〇)二月二三日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇家文書)では五ヵ村共同で料木一本を負担している。阿蘇社年中神事次第写(同文書)には、高橋・火宮両社の火迎の祭の料足を負担する在所の中に椎屋がみえる。慶長国絵図に志屋村とある。北里手永に属し、元禄一二年(一六九九)の北里手永高反別帳では萩原(はぎわら)村のうちで、高六五石六斗余・田七反六畝余・畑六町七反三畝余とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by