萩原村(読み)はぎわらむら

日本歴史地名大系 「萩原村」の解説

萩原村
はぎわらむら

[現在地名]大分市萩原緑町はぎわらみどりまち・萩原一―四丁目・新貝しんがい西にし

うら川河口の東側にある。南のまき村で同川対岸の花津留はなづる村から続く伊予街道と、大分川右岸沿いに北進してきた肥後街道が合流して当村に入る。天正一〇年(一五八二)四月一〇日の大友義統安堵状(円寿寺文書)に「高田庄萩原村之内舞童給」とみえる。代々大友氏の信仰厚かった円寿えんじゆ寺舞童給領があり、村内の地名として国宗・岩丸・八郎丸がみえる。同一三年頃、大友義統は法性坊寛清に舞童給を安堵し、諸点役免許検断不入権を与えた(九月二六日「大友義統安堵状」同文書)。さらに義統は円寿寺中道坊寛知の退出に際し、寛全に萩原内の坊領を安堵して諸点役免許検断不入権を与えているので、中道坊領もあった(五月一七日「大友義統安堵状」同文書)。同一八年七月一四日に萩原衆六人、二七日「はき原あたち新二郎」などが伊勢神宮に参詣している(「参宮帳写」後藤作四郎文書)。同年一一月二〇日、大友吉統は安倍右馬助入道に当村塩浜使の扶持として院内南小路の屋敷一一間を安堵しており(「大友吉統知行宛行状」大友家文書録)、塩田が存在していた。

慶長六年(一六〇一)四月一六日の中川秀成知行方目録案(中川家文書)に村名がみえ、文禄五年(一五九六)の地震で海没した今津留いまづる村の三五九石余の替りに当村二三八石九斗が岡藩中川氏に与えられている。


萩原村
はぎはらむら

[現在地名]榛原町大字萩原

西にし峠東方、福知ふくち村西部、伊勢本いせほん街道と伊勢北街道(初瀬街道・阿保街道・青山越)の分岐点に立地、伊勢・長谷詣客などの宿場町として発達。分岐点のふだつじの文政一三年(一八三〇)の道標には「右いせ本街道 左あをこえ道」と刻む。ハイバラともよむ(大和志)

西峠は郡西部から長谷寺に通ずる古代交通路上にあり、一にすみ坂といわれ、墨坂すみさか神社の鎮座地。「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年九月五日条に「墨坂におこし炭を置けり。(中略)墨坂のは、此に由りて起れり」という地名説話がみえ、同書天武天皇元年七月の壬申の乱の記事に、天武方の将軍大伴吹負が乃楽なら山の戦で敗走、墨坂で伊勢からの救援軍と遭遇したとある。


萩原村
はいばらむら

[現在地名]大和町萩原

しの村・蔵宗くらむね村の東に位置する。大田おおた(現芦田川)が中央を東流し、北東に向きを変えて賀茂かも(現世羅郡世羅町)へ流れる。篠村から流れる支流と大田川流域に広く開けた盆地に展開する。備後国世羅郡に属した。大草おおぐさ村から下徳良しもとくら村の徳良市を経て北上する道が当村に通じる。灰原はいばら村とも灰原本郷はいばらほんごうとも称し、篠村はもと当村に含まれたという。

「芸藩通志」に、萩原福田はいばらふくだ・上徳良・下徳良・萩原・篠・蔵宗の六ヵ村を筑紫つくし庄とよぶと記し、小字筑紫が当村に残る。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]印旛村萩原

松虫まつむし村の北、北印旛沼西岸に位置し、東方対岸は大竹おおだけ(現成田市)。慶長七年(一六〇二)の検地帳(林家文書)が伝わり、同帳から江戸時代初頭は酒井家次(臼井藩)領であったと推測される。また文化三年(一八〇六)に写された寛永一〇年(一六三三)の検地帳(石井家文書)の表紙には萩原郷水帳とある。同帳に検地役人の名は記されず、村高も判明しないが、末尾に百姓一〇人の名がみえる。その後旗本杉浦・八木両氏の相給となったが、寛文三年(一六六三)から幕府領で(「反別帳」林家文書など)、元禄一〇年(一六九七)旗本阿部・飯高・川口・三枝四氏の相給となり、同一三年頃の下総国各村級分では高七七六石余。


萩原村
はぎはらむら

[現在地名]大野原町萩原

高尾たかお(四九五・五メートル)の北側、雲辺寺うんぺんじ(九二〇・八メートル)の北西麓に位置する。西は大野原村、東部に大谷おおたに池がある。応永一六年(一四〇九)六月二四日の吉清寄進状(地蔵院文書)に「姫江新庄南方萩原村地蔵堂免田」とある。寛永国絵図に村名がみえ、和田わだ郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高四五七石余、うち萩原はぎわら寺領八斗七升、新田四八石一斗(萩原寺領三石一斗などを含む)。寛文九年(一六六九)の検地では反別五九町二反余、高四五九石余、うち田方三六町余・畑方二〇町余・屋敷二町余。田は上田石盛一石五斗から下々田の六斗まで七等級、畑は上畑の七斗以下四等級、屋敷は七斗。総筆数は一千一三四で、一筆の面積は五畝余と狭小。総筆数のうち約四割にあたる四二三筆に「惣兵衛作三郎右衛門」といった肩書が施されている。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]八代市萩原町・萩原町一―二丁目・十条じゆうじよう町・清水しみず町・大手おおて町一丁目・毘舎丸びしやまる

八代城下東方、球磨川が八代平野に出て北流し、やがて大きく西に蛇行する右岸一帯の村。南端に加藤清正築造とされる萩原堤がある。貞和三年(一三四七)九月一二日の少弐頼尚預ケ状(相良家文書)によると、「萩原城料所」として相良定頼に預け置かれた地に八代庄太田おおた郷内「萩原村内田地拾伍町段」とみえる。文亀元年(一五〇一)より相良長毎は八代城を攻略、「八代日記」文亀三年八月五日条に「八代萩原陣相良人衆乗陣」とあり、天文二一年(一五五二)一一月六日条には「萩原出家ケン蔵主、一瀬新左衛門方、萩原天神ニテ湯キシヤウ、やかて両人共ニ御成敗」と記されている。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]川西市萩原一―三丁目・萩原台東はぎわらだいひがし萩原台西はぎわらだいにし南野坂みなみのさかまつ丘町おかちよう火打ひうち一―二丁目・丸の内町まるのうちちよう出在家町でざいけちよう滝山町たきやまちよううぐいすおか

滝山村の西に位置する。地内にさんつぼの地名がある。応永二年(一三九五)三月一八日の法橋祐円寄進状(多田神社文書)に「萩原」とみえ、祐円が多田ただ院千部経田として寄進した一反が「萩原地内琵琶之頸覆盆子谷」にあった。大永七年(一五二七)に山問頼里が多田院の満仲廟所の常灯料として寄進した田地六ヵ所のうち三ヵ所は萩原地内にあり、山問爪生衛門・萩原新二郎・萩原殿が作人として名を連ねている(同年五月二七日「山問頼里寄進目録」同文書)


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]豊田町大字萩原

豊田平野の南東、日野ひの川南岸の村で、北は日野村、南東はだけ古烏帽子ふるえぼし(現美祢市)の各村、西は高山たかやま村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。

西市町にしいちまち紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に萩原とみえる。「地下上申」は地名の由来を「此所萩原ニて有之たる由、其故(中略)萩原と申ならハし候」と記す。同書には総高四八五石余、うち蔵入地の田方一〇三石余、畠方九石余、給領地は四家の入組支配で高三七二石余、うち田方三四〇石余、畠方三一石余。家数二〇、人口七六人とある。

村内の小名について「地下上申」は、今道いまみち芦河内あしかわち原田はらだ盗人浴ぬすとがえき白萩しろはぎいちさか城四郎じようしろ椿垰つばきだお鍋倉なべくら大河内おおこうち宝珠岩ほうじゆいわ一貫畠いつかんばた大平おおひらをあげ、うち今道とは「往古馬路にても無之、其後且々馬路ニ成り、其故か今道と申ならハし候」とあり、城四郎については、「萩原より美祢郡口通路之垰にて、往古城四郎と申仁、豊田之家来之由にて城戸を構居住被仕たる由」という伝えを載せる。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]福知山市字萩原・萩原新町はぎわらしんまち

由良川の支流土師はぜ川の中流にある。東は下河合しもかわい(現天田郡三和町)、南は芦淵あしぶち(現三和町)、北は堀越ほりこし村、西は生野いくの村・上野うえの村に接する。北部には、西方上野の小倉おぐら山から生野を経て東方土師川まで広い段丘台地が延びている。

「丹波志」に「萩原村 綾部領 高百七拾四石三斗六升 民家四十七戸 此所古萩多ク生セリ、依之地名トス」とある。

佐藤信淵の「巡察記」は田方一三・五九町余、畑方七・九町余、高一九七・三二五石、家数五一軒、人口二〇九人、牛四二疋と記し、続けて

<資料は省略されています>

村の東端部の段丘については、「丹波志」の古城の部に

<資料は省略されています>

とあり、その地は土師川がコの字形に蛇行して段丘をめぐり、その段丘上に大槻佐渡守が砦を構えていた。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]日高町萩原

西にし川の中流域にある熊野街道沿いの村。西は高家たいえ村、南東はいばらき村。小名に東光寺とうこうじ内の畑うちのはたがある。建仁元年(一二〇一)の「後鳥羽院熊野御幸記」一〇月一〇日条に「内ノハタノ王子」が記され、また「次出此木原又過野、萩薄遥靡眺望甚幽」とある。「続風土記」はこの記事をうけて、「此辺萩多かりしより村名となれる事知るへし」と記す。「紀伊名所図会」は「八雲御抄・藻塩草等に、萩原を本国の名所とするは此地なるべし」と記す。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]小国町北里きたざと

北里手永の中心宮原みやのはる村より萩原村の長田ながたまで約一里。「国誌」に「当村ヲ里俗ハ秋原村ト云」とある。元徳二年(一三三〇)二月二三日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇家文書)では秋原あきわら村は三ヵ村共同で料木一本を負担している。文明九年(一四七七)七月二五日の阿蘇惟家置文写(満願寺文書)には満願まんがん(現南小国町)の寺領中にみえる。同一六年八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)では、初穂米を納める在所として「あき原の分」があり、近世に当村の小村となる田原たばるしやくろくが記される。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]鳴門市大麻町萩原おおあさちようはぎわら

三俣みつまた村の北西、阿讃あさん山脈南麓の村で、山地と田畑が相半ばする。山麓には池が多く、その水を灌漑に利用した。東は池谷いけのたに村。集落中央を東西に撫養むや街道が走り、西部から南の川崎かわさき村に至る道があった。慶長二年(一五九七)の分限帳に萩原とみえ、置塩領四二〇石余。同八年には徳島藩領となった。正保国絵図には萩原村とあり、高四一九石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方三七六石余・畠方四三石余、芝山・はへ山の注記がある。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高四七五石余。


萩原村
はぎばらむら

[現在地名]日南町萩原

東流する日野川左岸の河岸堆積地に位置し、東は川上かわかみ村。村内を通る日野往来は同川と南東流する萩山はぎやま川の合流点にある村の西境井出口いでぐち集落を経て、多里たり宿まで二九町、街道幅二間(享保一一年「因伯地理志」)。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「ハキハラ」と訓ずる。拝領高は三〇三石余、本免は六ツ三分。寛永一〇年(一六三三)の図帳写(日野郡史)に「多里村ノ内萩原」とみえ、田方三〇三石余の等級は上田八町七反余・中田三町四反余・下田四町一反余・下々田一町八反余、ほかに発方の下田七反余・下々田九畝余、畑方二八石余の等級は上畑一町二反余・中畑六反余・下畑九反余・下々畑一町五反余、ほかに発方の下畑八畝余・下々畑二反余、切畑二町一反余。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]池田町萩原

本郷ほんごう村の東にある。享禄三年(一五三〇)の洪水以前は当地のすぐ東を揖斐川が流れていたとされる。「枕草子」第一一三段「原は」の「萩原」を当地とする説がある。中世は池田庄の内として推移したとみられる。明応二年(一四九三)一〇月二〇日の七郎衛門売券案(龍徳寺文書)に「売主はきわらの七郎衛門」とみえ、当地の住人が田地一反歩を龍徳りようとく寺祠堂方に代銭四貫文で売却している。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]高崎市萩原町

東南流する利根川右岸際に位置し、南は西横手にしよこて村、東は利根川を間にして公田くでん(現前橋市)など。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では総社領に村名がみえる(高崎藩領)。高七四六石余、田方三八町三反余・畑方三五町六反余。江戸後期の御改革組合村高帳では五三六石余が高崎藩領(家数七〇)、一八五石余が旗本萩原鉄之丞領(同一三)、二四石余が幕府領(家数なし)


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]筑紫野市萩原・むさしヶおか二―三丁目

古賀こが村の南、山北麓、ほぼ北東流する山口やまぐち川中流右岸に位置する。東は筑紫ちくし村・原田はるだ村、南は肥前国基肄きい城戸きど(現佐賀県基山町)。山を越えて同村に出る城山きやま道があった(続風土記・続風土記拾遺)。慶長(一五九六―一六一五)頃までは武蔵むさし村に含まれていたとされるが(続風土記拾遺)、慶長石高帳に萩原村とあり、慶長七年の検地高は六四二石余。元禄五年(一六九二)には高六四九石余、家数四二・社一・寺一、人数二九六(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も六四九石余。なお元禄国絵図には萩原村の内として今屋敷村が記される。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数四五(うち酒家一)・人数二〇二、牛三八・馬三(別本「続風土記附録」)


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]御殿場市萩原

新橋にいはし村の北西に位置し、本村の南方、新橋村の南には御殿場道に沿った飛地の永原ながはらがある。永禄一〇年(一五六七)八月三日葛山氏元は「茱萸沢・二岡前・萩原」を通行しないで古沢ふるさわ市へ集まる商人の荷物没収を芹沢玄蕃に命じている(「葛山氏元朱印状」芹沢文書)。元亀三年(一五七二)五月二日武田信玄は高田能登守に対して永禄一一年一二月以来の戦功の恩賞として「萩原郷 百六十七貫」などの知行を与えている(「武田信玄判物写」判物証文写)


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]下郷町栄富えいとみ

刈合かりあい村の西、阿賀川支流戸石といし川の右岸に位置し、水害常襲地であった。大矢おおやに縄文時代中期の土器、石鏃・石匙・石斧などの出土する遺跡がある。

寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では楢原ならはら郷のうちに村名がみえる。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」によると、打赤綿で馬ぬきを作り、一枚五〇文で売っていた。南山御蔵入領楢原組に属する。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)によれば高一五六石余、反別田四町五反余・畑二三町九反余、家数二〇・竈数二四、うち水呑・名子四、人数一一〇、馬一二。宝暦八年(一七五八)の宗門人別書上帳(同書)によると、農民持高は基本高かあるいはその二分一、三分一(または二倍か三倍)であることから、本百姓成立時に平均的に割地されたものとみられる。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]一宮市萩原町萩原

美濃路の萩原宿が置かれた。北は朝宮あさみや村に接する。「尾張志」によれば「天正の頃まてハ荒野にて、荒古あらこ北方西之川などいひし地なりしを、長尾武蔵守吉房入道屋敷を取建られしより、萩原西之川村と呼しとぞ」と記す。長尾氏の屋敷跡は現在御茶屋おちややとよび、長尾吉房は豊臣秀吉と義兄弟で、一〇万石を給せられてこの地に一時住んだという。西の萩原川には慶長(一五九六―一六一五)以前に萩原渡(天神渡)があり、秀吉の四奉行より萩原川船頭給として六〇石が与えられていたが、後に架橋され船頭給はおこし(現尾西市)へ移った(起町史)


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]菊水町萩原

南境を江田えた川が流れ、東は米野めの村・姫井ひめい(現鹿本郡鹿央町)、北は米野村・榎原えのきばる村、西は用木もといぎ村と接する。近世は内田手永に属する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に村名が載る。「国誌」に「旧ハ米野村ノ内也、米野村ハ当今中富手永ニ属ス」とあり、元禄国絵図にも「米野村之内萩原村」と記す。宝暦一二年(一七六二)の地引合帳によると田九町二反六畝余・畠九町四反三畝余、分米一六六石四斗余、百姓数三五、下ケ名に居龍・ぶんご谷・陳内田・地蔵平などがある。明治一一年(一八七八)頃の戸数六三・人数二九四、牛馬五二。


萩原村
はぎはらむら

[現在地名]生駒市萩原町・青山台あおやまだい

生駒丘陵東麓、竜田たつた川を隔てて小瀬おぜ村西方に所在。慶長郷帳の村高二六四・四六七石、幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、のち同藩の二割半無地高増政策により、村高は三三七・五一一石となる。延宝七年(一六七九)旗本松平信重領となり、明治維新に至った。安永三年(一七七四)の十一ケ村村鑑(矢野家文書)によると村高三三七・五一一石のうち本高二七一・三九四石。増高六六・一一七石。


萩原村
はぎはらむら

[現在地名]かつらぎ町萩原

なか村の西にある。「日本後紀」弘仁二年(八一一)八月一五日条に「廃紀伊国萩原・名草・賀太三駅、以不要也」とみえる萩原はぎわら駅は当村付近にあったとされるが詳細は不明。中世は山城神護寺領かせだ庄の中心的村落で、元暦元年(一一八四)田庄が神護寺領として立券されたのとほぼ同時に作られたという田庄絵図(神護寺蔵)には、「大豆畑中山」の南麓に集落が描かれている。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]北条市萩原

高萩たかはぎ山・名石めいし山・恵良えりよう山・天狗てんぐ山に囲まれる山間の小村。東は小山田おやまだ村、西は上難波かみなんば村、南は尾儀原おぎわら村・しよう村、北は浅海本谷あさなみほんだに村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項には「萩原村 林山有」とみえ、村高は二七石二斗八升四合、うち田方二三石三斗三升一合、畑方三石九斗五升三合とある。天保郷帳では三一石七斗一升一合となっている。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]瑞浪市稲津町萩原いなつちようはぎわら

西流する小里おり川支流萩原川沿いの小盆地にある。西は小里村。正中の変に土岐氏一族として出陣し京都で戦死した萩原孫二郎国実の名字の地といわれるが不詳。慶長郷帳には「おき原村」とみえ、高二一五石余、旗本小里光親領。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では高二八五石余。同九年幕府領となる。正保郷帳では萩原村とあり、田二一三石余・畑四五石余・山高三石余、草山・柴山がある。中山道大湫おおくて宿への助郷勤高二〇〇石(元禄七年「大湫町助郷帳」森川文書)。宝永五年(一七〇八)から正徳五年(一七一五)まで相模小田原藩領となっている(「大久保氏領地替地書上写」和田文書)


萩原村
はぎはらむら

[現在地名]富山市萩原

神通川に熊野くまの川が合流する地点の南方に位置し、南は荒屋あらや村など。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高三八〇石余、田方二四町六反余・畑方七反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四六八石、免四ツ八歩、小物成は野役二六匁・鱒役二匁・鮎川役一三匁・猟船櫂役五匁・桑役一七匁。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高一二五石余・定免五ツ一歩、新田高二一一石余・平均免八歩七厘余、定小物成は銀納役一六匁余・柳差六匁余・野役一六匁・桑役一七匁・鮎川役一三匁・鱒川役二匁。


萩原村
はいばらむら

[現在地名]龍野市揖保町萩原いぼちようはいばら

東用とうよう村の南に位置し、南は揖保川を境に市場いちば(現揖保川町)揖西いつさい郡に属する。「播磨国風土記」記載の揖保郡萩原はぎはら里の遺称地とされる。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に北萩原村とみえ、小出吉政は同村の一三五石余などを与えられている。慶長国絵図に萩原村とみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一九〇石余、高一五七石余。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]関町萩原

なかノ川の上流に位置し、東北は古馬屋ふるまや村に接する。文亀三年(一五〇三)の万松山永明禅寺懺法僧衆帳(瑞光寺蔵)に「萩原妙貞禅尼」の名がみえる。「五鈴遺響」によれば、戦国期には「北畠家臣萩原隠岐守同与志摩居住ス、真善院名録ニ載ス」とある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に萩原村とある。初めはやし(現安芸郡芸濃町)の織田信重領、元和元年(一六一五)から津藩領。「宗国史」によれば、寛延(一七四八―五一)頃の家数四五、人数二二五。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]神栖町萩原

常陸利根川左岸にあり、東は日川につかわ村。室町初期と推定される鹿島尾張権守利氏注文(諸家所蔵文書)に「宮本郷内萩原・片淵両村、萩原三郎次郎入道跡」と記され、宮本みやもと郷に属していた。応安(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「はきはらの津はきはら知行分」とあり、津は萩原氏が統轄していた。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「仁百四拾九石三斗四升 はき原・につ川」とある。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]武生市萩原町

丹生山地を流れる天王てんのう川東岸段丘上にあり、対岸中野なかの村の枝村と伝えられる。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高八〇・二二石、先高六一石余・出分一八石余。正保郷帳によると田方七六石余・畠方三石余。


萩原村
はぎわらむら

[現在地名]東吉野村大字萩原

木津川こつかわ村の北にある。小川おがわ郷のうち。慶長郷帳では村高三三・六七五石、幕府領(代官辻子和泉)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、延宝七年(一六七九)再び幕府領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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