阿蘇郡
あそぐん
面積:一一九七・九六平方キロ(境界未定)
一の宮町・阿蘇町・小国町・南小国町・産山村・波野村・蘇陽町・高森町・白水村・久木野村・長陽村・西原村
県の東北部に位置し、北は西から東にかけて大分県日田郡上津江村・中津江村・大山町・天瀬町、同県玖珠郡玖珠町・九重町、東は同県直入郡久住町・荻町、竹田市、宮崎県西臼杵郡高千穂町・五ヶ瀬町、南は上益城郡清和村・矢部町・御船町・益城町、西は菊池郡大津町・旭志村、菊池市に接する。現上益城郡清和村の南半分は昭和二二年(一九四七)まで阿蘇郡であった。阿蘇山とその外輪山が当地方のすべてを規定しており、阿蘇カルデラ火山内部の中央火口丘山麓と火口原、および外輪山内壁斜面、外輪山外麓斜面に地域的に大別できる。中央の火口丘を境として、内部の火口原は北部の阿蘇谷と南部の南郷谷に分れる。集落は火口丘斜面、および外輪山内壁斜面と火口原平地との接点に発達する。火口原においては、この斜面と平地との接点の集落を拠点に、中央低湿地への田地の拡大と、山麓斜面へ向けての畑地の開発が古代・中世における農耕社会発展の基本的方向であったとみられる。これら開発の中心地域は、阿蘇谷では東部の一の宮町宮地・手野・坂梨に囲まれた地域で、古代条里遺構も確認される。これに比べ、南郷谷では古代・中世に地域の政治的・経済的中心が育たず、本郷の所在も確認できない。高森町の高森が南郷谷の中心として台頭するのは近世以降である。いっぽう火口丘西麓は開発が遅れて広い原野が残り、古代以来の阿蘇社神事の一つである下野狩の狩場も存続した。外輪山外側斜面では、北部の小国地方が政治的・経済的にまとまった環境にあったが、北東部の産山・波野、東部の高森町野尻・草部・蘇陽町大野、西部の山西地域は高地の小集落として、阿蘇谷・南郷谷と結びついて存続・発展したとみられる。
外輪山内側の水はすべて長陽村立野から白川となって西流するが、小国地方では筑後川支流の杖立川にまとまり、東部では五ヶ瀬川となり、宮崎県に流入する。国鉄豊肥本線が阿蘇谷を東西に横切り、同高森線が立野で分岐して南郷谷と結ぶ。ほぼ豊肥本線に沿って国道五七号が通り、そこから分岐する形で小国への国道二一二号、中央火口丘の東側を南北に結ぶ国道二六五号、南郷谷を横断する国道三二五号がある。九州横断道路はやまなみハイウェー別府阿蘇道路ともよばれ、雄大な阿蘇の自然景観を楽しむ九州観光の目玉道路である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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