志津兼氏(読み)しづ・かねうじ

朝日日本歴史人物事典 「志津兼氏」の解説

志津兼氏

生年生没年不詳
鎌倉末期・南北朝時代刀工大和(奈良県)手掻派の刀工で,はじめ包氏と名乗ったが,美濃国多芸郡志津(岐阜県南濃町志津)に移住し,兼氏と改名した。相州正宗弟子と伝え,正宗に最も近い作風を示す。作品は太刀,短刀ともにあり,太刀では直刃調の大和風のものと,湾れに互の目を交え沸の深くついた相州風のものとの二様がある。また短刀は3口あるが,いずれもこの時代としては例外的に小振りである。弟子に兼友,兼次などがいて,兼友には応安4(1371)年,兼次に観応1(1350)年の年紀を記した作がある。<参考文献>得能一男『美濃刀大鑑』

(原田一敏)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「志津兼氏」の意味・わかりやすい解説

志津兼氏
しづかねうじ

南北朝時代の美濃の刀工。初め包氏と称し,大和から美濃の志津に移住したと伝える。のち相州正宗に学び,大和物相州物を加味した独特の関物の鍛法を完成。南北朝以降栄えた関物刀工の祖となった。「正宗の十哲」の一人と称される。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「志津兼氏」の解説

志津兼氏 しづ-かねうじ

兼氏(かねうじ)

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