相模国(神奈川県)に在住した刀工によって作られた刀剣の総称。相州鎌倉は1192年(建久3)源頼朝によって幕府が開かれてから栄えたが,刀工に関しては最古の刀剣書《観智院銘尽》に,すでに保元(1156-59)ころ,沼間(逗子市)に三浦氏の鍛冶で〈三くち丸〉を作ったという源藤次(げんのとうじ),同じく〈あおみどり〉〈咲栗(えみぐり)〉を作ったという藤源次(とうげんじ)らがいたことが記されている。しかし,これらの刀工の作は現存せず,事実上は鎌倉中期に山城国粟田口派の国綱,備前国直宗派の国宗,一文字派の助真らが鎌倉に移住したことによって相州物の歴史は始まるといえる。だが,これらの刀工もそれぞれの派の伝統的な作風を継承するにとどまり,いわゆる相州伝といわれる特色ある作風を展開していくのは,国綱の子と伝える国光が出現してからである。国光は通称を新藤五といい,自らの作刀に〈鎌倉住人新藤五国光作〉と銘したものがのこる。鎌倉の地において鍛刀したことを明示した最も古い刀工であり,永仁1年(1293)から元亨4年(1324)までの年紀作がのこっている。その作風は,粟田口派の直刃を得意として,いちだんと地と刃の沸(にえ)が強くつき,刃中の金筋や砂流しなどの働きが豊富であって,ことに短刀の製作に秀で,太刀はきわめて少ない。その門人に行光と正宗がおり,正宗に至って相州伝の作風が完成された。この相州伝とは,硬軟の鉄を組み合わせて鍛えた板目に地景が入った美しい地肌と沸が厚くつき,金筋,稲妻,砂流しなどの働きが多い湾れ(のたれ)の刃文に特色がある。正宗の作品は太刀,短刀ともに多いが,在銘作は少なく,京極家伝来の〈京極正宗〉,最上家伝来の〈大黒正宗〉,本庄家伝来の〈本庄正宗〉と号のある短刀,また尾張家伝来の名物〈不動正宗〉の短刀など数点にすぎない。正宗の子に貞宗がおり,父の作風を継いで上手であるが,比較的おだやかなものが多い。南北朝時代を代表するものに広光と秋広がおり,この両工はさらに沸を強調した皆焼(ひたつら)とよばれる刃文を創始した。室町時代の相州物は末相州物とよばれ,中でも綱広家は同名が江戸末期まで継承された。また後北条氏の城下町小田原で鍛刀した康国,康春らは小田原相州とよばれている。
→日本刀
執筆者:原田 一敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
相模(さがみ)国(神奈川県)でつくられた日本刀の呼称。鎌倉・南北朝時代(13~14世紀)には鎌倉が、室町後期(16世紀)には小田原が中心地となった。開祖には諸説あり、建長(けんちょう)年間(1249~56)京の粟田口(あわたぐち)派の国綱が北条時頼(ときより)に召され、鎌倉へ下向(げこう)したのに始まるとするもの、また備前(びぜん)国(岡山県)から三郎国宗(くにむね)や一文字助真(すけざね)が移住したという説もあるが、新藤五国光(しんとうごくにみつ)に永仁(えいにん)元年(1293)ほかの紀年作があるところから、開祖を国光に置くのが妥当であろう。その弟子五郎入道正宗(まさむね)によって相州伝の作風は完成されたが、それは硬軟の鉄を組み合わせて鍛えた地肌の美しさと、沸(にえ)の厚くついた湾(のた)れ調の刃文に特色をみる。国光は鋭い小沸(こにえ)出来の直刃(すぐは)を得意としたが、弟子の行光はその作風を受け継ぎ、さらに正宗は沸の激しい大乱刃(みだれば)を焼き、独特の美的表現を創始した。南北朝時代には正宗の子貞宗(さだむね)、ついで広光、秋広が輩出した。貞宗は正宗より穏和で、互(ぐ)の目(め)乱刃が多いが在銘品がない。広光・秋広は趣(おもむき)を変え、飛焼(とびやき)の多い皆焼(ひたつら)刃をはじめ在銘品・紀年作もある。
室町末期の相州物は「末(すえ)相州物」とよばれ、またのちに北条氏の城下町小田原の地で鍛刀した康国、康春一門のものなどを「小田原相州」とよんで区別している。
[小笠原信夫]
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