大和物(読み)ヤマトモノ

デジタル大辞泉 「大和物」の意味・読み・例文・類語

やまと‐もの【大和物】

大和国刀工が鍛えた刀の総称。特に平安末期以降、多く社寺に専属するかたちで、千手院物当麻たいま手掻てがいなどの流派が活躍した。

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精選版 日本国語大辞典 「大和物」の意味・読み・例文・類語

やまと‐もの【大和物】

〘名〙 大和国の刀工が鍛えた刀の総称。また、いかにも大和地方のものらしい様子を示しているもの。大和風なもの。
※俳諧・崑山集(1651)一春「春日野に出るくくたちや大和物〈好道〉」

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改訂新版 世界大百科事典 「大和物」の意味・わかりやすい解説

大和物 (やまともの)

大和国に在住した刀工によって作られた刀剣の総称。古代から政治・経済・文化の中心地として栄えた大和国には刀鍛冶も多く,山城,美濃,相州,備前とともに大きな生産地であり,大和伝といわれる特色ある作風を展開した。国都のおかれた奈良時代から,大和には当然刀鍛冶が存在していたと考えられるが,確実に大和物と指摘できる遺品はない。しかし,刀剣書には大宝年間(701-704)の人として,天国(あまくに),天座,友光,藤戸らの名をあげている。この天国は大和国宇多郡の住人で,平家重代の小烏丸(こがらすまる)の作者として著名であるが,小烏丸は平安中期の作とみるのが定説であり,天国の年代や小烏丸の作者についてはなお検討を要する。

 大和鍛冶の作が明らかになるのは大和五派といわれる千手院,手搔(てがい),当麻(たいま),保昌(ほうしよう),尻懸(しつかけ)の流派が確立されてからのことである。千手院派は東大寺東塔近くの千手院,あるいは興福寺外僧坊千手院に住したという一派で5派のうちでは最も古く,銘鑑には平安後期の行信(長承(1132-35)ころ)と重弘(仁安(1166-69)ころ)を祖とする2系図を掲げている。しかし,この2工の作は現存せず,鎌倉時代の重行,重吉,康重や南北朝時代の長吉,吉広らの作がわずかにあるにすぎない。手搔派は東大寺転害門の外辺に居住した一派で,東大寺に隷属した刀工団といわれ,鎌倉時代中期,正応(1288-93)ころの包永(かねなが)を祖としている。包永は同名が数代南北朝時代まで続き,一門には包利,包清,包吉,包重,包真など〈包〉の字を冠する者が多く,他派が比較的早く衰えたのに対し,室町時代まで栄えている。また,当麻派は当麻寺に関係があった一派といい,鎌倉時代中期の国行を祖とし,南北朝時代まで続き,国清,友清,友行,有俊らの刀工が知られている。尻懸派の居住地は手向山(たむけやま)八幡宮,天理市岸田町尻懸,宇陀郡御杖村尻懸など諸説があり,建治年間(1275-78)の則弘を祖としている。しかし,則弘の作刀は現存せず,その子則長から室町時代まで代々の作を残している。保昌派は作刀に〈大和国高市郡住人金吾貞吉〉と銘したものがあり,作刀地が明らかである。この派では貞継,貞吉,貞清,貞興など〈貞〉の字を冠する者が多く,鎌倉末期から南北朝期にかけて栄えた。これら5派が大和鍛冶の中心であったが,ほかに吉野郡竜門に千手院系の延吉がいる。また室町時代には奈良市内に政次,政長,正真ら金房(かなぼう)鍛冶が新たにおこった。大和物の作風は寺社勢力の影響を多少ともうけていたせいか,伝統墨守の傾向が強く,一般的に各時代とも地味で,備前や山城のような華やかさはみられない。鍛(きたえ)は板目が柾(まさ)がかるものが多く,とくに保昌は純然たる柾目鍛に個性をみせている。また刃文は直刃(すぐは)がほつれ,沸(にえ)がよくつき,帽子は掃き掛けて焼詰めとなるなどを共通の特徴としている。こうした大和物の作風は古くは薩摩の波平,鎌倉時代には越中宇多派,備後三原派,周防二王派,美濃物へと伝えられ,新刀期に至っては南紀重国,仙台国包らがみずから大和鍛冶の末流と称して,その作刀に大和伝を示した。
日本刀
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大和物」の意味・わかりやすい解説

大和物
やまともの

大和国(奈良県)で制作された刀剣の総称。山城(やましろ)、美濃(みの)などとともに、大和伝といわれる独自の作風を展開した。大和鍛冶(かじ)は都が置かれた飛鳥(あすか)・奈良時代から当然存在したはずであるが、現存する有銘太刀(たち)はいずれも鎌倉後期のものである。しかし、日本の鍛冶の祖といわれる大同(だいどう)(806~810)ごろの天国(あまくに)は、大和国宇陀(うだ)郡の住人でおそらく当時の官営鍛冶の一人と思われる。書物ではそのほか伝説的な刀工名を記しているが、信憑(しんぴょう)性のある作刀はみられない。

 大和鍛冶の作が明確になるのは、大和五派といわれる千手院(せんじゅいん)派、手掻(てがい)派、尻懸(しっかけ)派、当麻(たいま)派、保昌(ほうしょう)派の5流派がおこってからである。このうち千手院派がもっとも古く、銘鑑には平安後期、長承(ちょうしょう)年間(1132~35)の行信(ゆきのぶ)、仁安(にんあん)年間(1166~69)の重弘(しげひろ)を祖とする2流の系図がみえているが、鎌倉前期とみられる太刀があり、なかには「千手院」とのみ銘した作品もある。手掻派は東大寺転害(てがい)門の外辺に住した一派で、東大寺に隷属した刀工団といわれる。銘鑑には正応(しょうおう)年間(1288~93)の包永(かねなが)を祖とするとあるが、東大寺鍛冶には「東大寺延家(のぶいえ)」など鎌倉初期を下らぬ作品もあるところから、系譜はなお研究の余地がある。しかしこの派から美濃鍛冶がおこり、春日(かすが)社と関係が深いことが注目される。尻懸派は包永とほぼ同時代の則長(のりなが)を事実上の祖とするが、その居住地は不明。ただし、能阿弥(のうあみ)本銘尽には「奈良鍛冶なり」とある。以上の奈良三派のほか、当麻派は鎌倉中期の国行を祖として當麻寺周辺に南北朝時代まで続き、貞吉(さだよし)・貞宗(さだむね)など柾目(まさめ)鍛えを特色とする保昌派は南大和の高市郡に居住し、鎌倉末より南北朝期にかけて栄えた。室町期に入ると5派中手掻派だけが残り、この期のものを未手掻と称している。室町末期には金房(かなぼう)一派が栄えるが、新刀期には消えている。

 大和物の作風は一般的には地が柾目鍛えで、刃文は直刃(すぐは)を基調とする沸(にえ)づいた乱れであることなどが特色である。

[小笠原信夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和物」の意味・わかりやすい解説

大和物
やまともの

大和国 (奈良県) の刀工による刀剣。大宝年間 (701~704) 大和国に居住し,平家の伝宝『小烏丸』の作者と伝えられる天国 (あまくに) を日本刀鍛冶の始祖とする。しかし大和鍛冶による平安~鎌倉時代初期の作刀はほとんど現存しない。鎌倉時代中期以降に,千手院,手掻 (てがい) ,輾磑 (てんがい) ,当麻 (たいま) ,保昌 (ほうしょう) ,尻懸 (しっかけ) の各派が興り,名工が出現するに及んで,大和鍛冶は隆盛をきたした。このほか千手院系の龍門延吉,室町時代末期の金房 (かなぼう) 派の系統が栄えた。また正宗十哲の志津兼氏は大和手掻派の刀工であったが,のち美濃に移住して改名したと伝えられる。大和物は地の鍛えが柾目 (まさめ) ,刃文は直刃 (すぐは) を基調とした乱 (みだれ) で,太刀や刀では鎬筋 (しのぎすじ) が高いなどの特色がある。

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百科事典マイペディア 「大和物」の意味・わかりやすい解説

大和物【やまともの】

大和国の刀工が作った刀剣の総称。大和鍛冶(かじ)は古くから発達したと伝え,天国(あまくに)(8世紀初め)が祖というがそのころの確実な作品は見ない。鎌倉時代に最も栄え,千手(せんじゅ)院,当麻(たいま),尻懸(しっかけ),手掻(てがい),保昌(ほうしょう)の5派に名工が出て特色ある作風を樹立。地肌は柾目鍛(まさめきたえ)を主とし,相州物に次いで沸(にえ)出来の作風を示し,直(すぐ)刃,あるいは直刃に互(ぐ)の目を交えた刃文をもつ。

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