志賀親朋(読み)しが・ちかとも

朝日日本歴史人物事典 「志賀親朋」の解説

志賀親朋

没年:大正5.9.20(1916)
生年天保13.11.8(1842.12.9)
幕末明治初期のロシア通。長崎浦上淵村(長崎市)庄屋志賀和一郎の嗣子漢学,槍術,砲術,馬術を学ぶ。安政5(1858)年露国軍艦アスコリド号の船員を監督取り締まり中にロシア語を学びはじめ,文久1(1861)年箱館在勤ロシア語通弁を命ぜられる。慶応2(1866)年箱館奉行小出秀実の日露国境画定交渉に随行,ヨーロッパ経由で露国に行く。明治2(1869)年箱館詰外務掛,次いで北海道開拓使少主典となり,3年彦根藩権少属。5年ふたたび外務省勤務となり,6年露国公使館書記生。柳原前光公使の樺太千島交換条約交渉の通訳に当たる。10年に退職後は日露協会長崎県支部長などを務めた。

(酒田正敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「志賀親朋」の解説

志賀親朋 しが-ちかとも

1842-1916 幕末-明治時代の通訳。
天保(てんぽう)13年11月8日生まれ。家は長崎代官支配の浦上淵村の庄屋。ロシア軍艦の士官にまなび,文久元年箱館在勤のロシア語通弁となる。慶応2年(1866)外国奉行小出秀実(こいで-ひでみ)にしたがい樺太(からふと)の国境画定交渉のためロシアにいく。維新後,外務省にはいり,千島樺太交換交渉などの通訳をつとめた。大正5年9月20日死去。75歳。通称は浦太郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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