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樺太

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

樺太

北海道の北に位置する南北に細長い島。宗谷岬からは40キロ余りの距離にある。1905(明治38)年、日本は日露戦争後のポーツマス条約により、ロシアから北緯50度以南の南樺太を譲り受けた。45(昭和20)年8月、第2次世界大戦でソ連が対日参戦し、千島列島と南樺太に侵攻。51年のサンフランシスコ平和条約(ソ連は調印せず)で日本は千島列島(4島を含まず)と南樺太を放棄した。現在はロシア・サハリン州に所属する。戦前は炭鉱や製紙業が盛んだった。約40万人以上の日本人と、多くの朝鮮半島出身者が居住していた。日本人の大半は戦後に引き揚げたが、朝鮮半島出身者は日本への渡航が認められなかったため、残留を余儀なくされた。

(2014-08-15 朝日新聞 朝刊 青森全県 1地方)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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デジタル大辞泉の解説

からふと【樺太】

サハリンの日本語名。

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百科事典マイペディアの解説

樺太【からふと】

サハリン

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大辞林 第三版の解説

からふと【樺太】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

樺太
からふと

サハリン島」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

樺太
からふと

北海道の北に、南北に長く連なる島。ロシア名サハリンСахалин/Sahalin。東はオホーツク海、西は日本海に囲まれる。大陸とはタタール海峡によって隔てられ、その最狭部にあたる間宮(まみや)海峡(ネベリスコイ水道)は幅7.3キロメートルしかなく、水深も浅い。北海道との間は宗谷海峡によって隔てられ、その幅は約40キロメートルである。南北948キロメートル、東西は最大部160キロメートル、最狭部27キロメートル。面積は7万6400平方キロメートルで、北海道(本島7万8073平方キロメートル)よりもわずかに小さい。ロシア連邦のサハリン州は、千島列島および周辺の諸島を含めて面積8万7100平方キロメートル、人口59万1000(2001)。中心都市は南端部の豊原(とよはら)(ユージノ・サハリンスク)で、人口17万9900(1999)。現在の住民の約8割はロシア人であり、ウクライナ人(6%)、朝鮮人(5%)、ベラルーシ人、モルドバ人などが住む。ほかに少数のギリヤーク(ニブヒ)、ウイルタらも住む。北緯50度以南の南樺太は1905年(明治38)から45年(昭和20)まで日本が領有していたため、第二次世界大戦前は約38万人の日本人が居住していた。朝鮮人の居住者は、日本を通じてやむなく移住させられ、残留した人たちである。[外川継男・渡辺一夫]

地形・気候

地形は北部と南部で対照的な景観を示す。北部は湿地や低地が卓越し、南部は二条の山脈が並行して南北に走り(最高点1609メートル)、山がちである。二条の山脈の間にツィミ・ポロナイ低地を挟む。中部東側に北知床(きたしれとこ)(テルペニヤ)岬、南端部東側に中知床(アニワ)岬、南端部西側に西能登呂(にしのとろ)(クリリオン)岬がいずれも南に向けて突出するのは顕著な特徴である。属島は少なく、北知床岬沖に海豹(かいひょう)(チュレーニー)島、西能登呂岬西沖に海馬(かいば)(モネロン)島などがある。月平均気温は北部で1月零下23℃、7月15℃、南部で1月零下9℃、7月17℃。湿度は高く(日本と同じぐらい)、夏には霧がかかる日が多い。東海岸は半年間流氷に閉ざされ、西海岸は11月から3月まで結氷する。[外川継男・渡辺一夫]

都市と産業

水産業が盛んで、ニシン、サケ、マス、タラ、タラバガニ、スケトウダラなどを多く漁獲する。また丘陵と山地にはエゾマツなどの針葉樹が多く、とくに南部の諸都市ではパルプ工業が盛んである。石油と天然ガスが北端のオハ油田に産し、パイプラインで間宮海峡を越え、アムール川沿いのコムソモリスクまで送られる。北端西側のモスカリボ港から船でも運び出される。わが国の資本も加わった企業が設立され、大陸棚油田の開発に協力が行われている。石炭(1974年産量530万トン)は恵須取(えすとる)(ウグレゴルスク)などに産する。農業は畜産を主とするが、ツィミ・ポロナイ低地と南部の鈴谷(すずや)平野ではライムギ、小麦、ジャガイモの収穫もみられる。ソ連解体以前は39のソフホーズ(国営農場)と10のコルホーズ(集団農場)があったが、協同企業化が進んでいる。
 南部はもっとも開発が進み、豊原のほか、真岡(まおか)(ホルムスク)、大泊(おおどまり)(コルサコフ)、本斗(ほんと)(ネベリスク)などの都市がある。このほか西部に炭鉱業と林業を主とする恵須取、サハリンの旧州都アレクサンドロフスク・サハリンスキー、東部に林業を主とする敷香(しすか)(ポロナイスク)、北部に石油と天然ガスを産するオハなどの諸都市があり、それぞれ2万~4万の人口を有する。[外川継男・渡辺一夫]

歴史

近世になってヨーロッパ人や日本人が来島したとき、彼らの眼前にいたのは北部のギリヤーク(ニブヒ)、中部東岸のウイルタ、南部のアイヌであったが、南部では新石器時代の遺跡が多数発掘されており、定住の歴史は紀元前2000年にまでさかのぼる。だがこの新石器時代人と後の樺太アイヌとの関係はさだかでない。アイヌはのちに北海道から渡来したと考える学者もいる。この地を最初に支配しようとしたのは中国である。とくに元朝は13世紀末~14世紀初頭にこの地に警備隊を常駐させ、明(みん)朝の永楽帝はアムール川下流域と樺太を奴児干都司(ヌルカンとし)の管下に置いた。清(しん)朝もアムール川河畔のデレンに満州仮府を設け、樺太の住民はここに進貢した。彼らはここで毛皮の対価として錦などの中国産品を受け取り、これを樺太南部や北海道北部の日本人との交易に用いた(山丹(さんたん)交易)。[外川継男・栗生沢猛夫]
日本人とロシア人の進出
樺太への日本人の進出時期については諸説がある。樺太は前2世紀以来日本の領土であること、658年(斉明天皇4)阿倍比羅夫(あべのひらふ)が粛慎(みしはせ)を討った際に樺太を征服したこと、日蓮(にちれん)の高弟日持上人(にちじしょうにん)が1295年(永仁3)布教を行ったこと、1450年代に松前藩の祖武田信広(たけだのぶひろ)が樺太を蝦夷地(えぞち)の一部として領有したこと、などが主張されることがあるが、いずれにも確たる根拠はない。日本人の最初の樺太(日本では最初、樺太、北蝦夷地などとよばれた)上陸は1635年(寛永12)、松前藩の巡見使一行によって行われたとみるのが妥当である。翌年の日本隊は多来加(たらいか)(テルペニヤ)湾に達した。松前藩はさらに、1650年(慶安3)、89年(元禄2)、1700年(元禄13)に巡見使を送り、1679年(延宝7)には季節的な番屋を開設した。ロシア人の進出は1640年代になってからであるが、このときに樺太を「発見」したと主張されているコサック部隊が実際に島に渡ったという証拠はない。他のヨーロッパ人ではオランダ人フリースが1643年(寛永20)に亜庭(あにわ)湾に到来した。いずれにせよ、17世紀には日本人もロシア人も樺太を本格的に経営することはなかった。幕府は僻遠(へきえん)の地に関心を示すことが少なかったし、ロシアも清(しん)朝との間に締結したネルチンスク条約(1689)後、アムール川から遮断されてしまい、カムチャツカや北千島方面に転じていったからである。18世紀になるとロシア人は海路樺太方面に進出を始め、しだいに幕府の警戒心を呼び起こした。工藤平助、林子平(しへい)、本多利明(としあき)らの学者が相次いで「赤蝦夷」の脅威を説き、幕府もこれに応じて、1786年(天明6)、92年(寛政4)、98年(寛政10)に南樺太に巡見使を派遣し、1807~21年(文化4~文政4)には樺太全域を直轄領とした。こうしたなかで間宮林蔵が二度にわたる樺太探検を行い(1808~09)、間宮海峡を発見し、樺太が島であることを確認した。彼は大陸に渡って、清国のデレンにまで達した。[外川継男・栗生沢猛夫]
日露通好条約以後
樺太をめぐる日本、ロシア両国間の最初の協定は、1855年2月(安政元年12月)の日露通好条約(日露和親条約または下田(しもだ)条約ともいう)である。これは、そもそも樺太が国際条約に登場した最初の条約でもあった。これにより樺太は日本とロシアとの共同領有と決められたが、その後ロシア人の進出は目覚ましく、樺太領有は日本政府にとってしだいに負担になり始めた。1875年(明治8)サンクト・ペテルブルグ条約(樺太・千島交換条約)により、日本は樺太を放棄するかわりに、得撫(ウルップ)島以北の千島列島を獲得した。この後、日露戦争後のポーツマス条約(1905)で、北緯50度以南の南樺太は日本領となった。ロシア革命後の1920~25年(大正9~14)、日本は尼港(にこう)事件(ニコラエフスク事件)に対するソビエト政府の責任を追及して、ソ連領の北樺太を占領した。その後、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)ソ連は対日参戦するとともに樺太を占領し、以後、樺太全土をサハリン州として支配することとなった。91年12月ソ連解体後も引き続きロシア連邦が支配している。日本は1951年(昭和26)のサンフランシスコ講和条約で、南樺太およびその周辺の島に対する領有権を放棄した。今日、日本政府は南樺太に対し、正面きって領有権を主張することはないが、その帰属については、将来国際法によって決着がつけられるべきものであるとの立場をとっている。[外川継男・栗生沢猛夫]
『樺太庁編『樺太庁施政三十年史』上下(1973、74・原書房・明治百年史叢書) ▽成田与作、プロゾーロフ著『樺太及北沿海州』(1983・国書刊行会) ▽山本祐弘他著『樺太自然民族の生活』(1979・相模書房) ▽ジョン・ステファン著、安川一夫訳『サハリン――日・中・ソ抗争の歴史』(1973・原書房) ▽秋月俊幸著『日露関係とサハリン島』(1994・筑摩書房)』

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世界大百科事典内の樺太の言及

【サハリン】より

…ロシア連邦の東端,北海道の北方に位置し,北緯45゜54′から54゜20′まで948kmにわたり南北に細長くのびる島。旧日本名は樺太。古くは唐太とも書き,北蝦夷地とも呼ばれた。…

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