浦上淵村(読み)うらかみふちむら

日本歴史地名大系 「浦上淵村」の解説

浦上淵村
うらかみふちむら

浦上村の南西部を占め、南流する浦上川右岸から長崎浦西岸にわたる。北東浦上山里うらかみやまざと村が広がる。応永二六年(一四一九)四月二日の重通等連署状写(福田文書)に「淵分 一尾花子間之事」とみえる。浦上浄賢・中野次郎大夫・家野因幡権守・淵主計允らがおり、戦国末期には有馬氏の勢力下であったという。慶長(一五九六―一六一五)初年、大友氏の旧臣志賀親成が当地に来て尾崎屋敷に居住したという。江戸時代は浦上諸村の総称である浦上村のうちで、また浦上淵村のうちに諸村を含む。幕府領長崎代官支配で、慶長国絵図に「淵村」とみえ、高四三九石余。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長コウロス徴収のキリシタン連判書付に「浦上」の「淵与兵衛寿庵」「兵部左衛門志るへすてる」らキリシタンの指導者と考えられる四名が署名している。正保国絵図に淵村とあり、高一四五石余となっているのは稲佐いなさ村分に相当するか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報