日本歴史地名大系 「恵利村」の解説 恵利村えりむら 福岡県:浮羽郡田主丸町恵利村[現在地名]田主丸町恵利筑後川左岸に位置する。恵理村とも記した(啓忘録抜萃)。上三郡絵図によると屋敷地は筑後川に沿い、東の三角(みすみ)に番所がある。村内の土居の長さは六一六間、植立松近くに渡守が描かれる。耕地はおもに筑後川と古(ふる)川に挟まれ、朝帰(あさがえり)村・早田(そうだ)村・三本木(さんぼんぎ)村分などと混在する。筑後川には筑前国長田(ながた)村(現甘木市)と結ぶ恵利渡(幅一〇八間・深さ一間二尺)、筑前国中(なか)村(現同上)と結ぶ楓之瀬徒渡(幅一〇八間・深さ一尺八寸)があった(正保四年大小道之帳・「在方諸覚書」)。幕末の筑後川絵図(木村家蔵)には上流から猿尾(さるお)刎・石場(いしば)刎・繋(つなぎ)刎・恵利舟渡(九〇間)・三角町・新(しん)刎・恵利堰が描かれる。鎌倉時代初期の弥勒寺喜多院所領注進状(石清水八幡宮文書/大日本古文書四―二)に筑後国「会利畠」がみえ、当地に比定される。文亀二年(一五〇二)三月三日に大友親治が草野中務少輔重永に宛行った所領のなかに「今亦秋月持留之内会利八拾町除之、残分一円事」とある(「大友親治宛行状案」草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)。享禄五年(一五三二)七月二六日には秋月伊予守跡の恵利のうち犬丸(いんまる)名五町・晩田(ばんで)名五町・隼人(はやと)名四町などが草野長門守親永に宛行われた(「大友氏加判寄衆連署奉書」同上)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by