田主丸町
たぬしまるまち
[現在地名]田主丸町田主丸
田主丸村のうちに発達した在郷町。日田街道(豊後中道)が通り、正保四年(一六四七)の大小道之帳によると府中町(現久留米市)から田主丸町まで三里一五町三〇間、吉井町(現吉井町)まで一里一三町。天保七年(一八三六)の田主丸町并村絵図(藤田家蔵)によれば、新川沿いの中道往還(日田街道)両側に短冊形に町屋敷が描かれる。町並合計四九三間半。西から出町(八八間、門上村分)、新川を渡り構の西脇に町別当長兵衛屋敷のある横町(六〇間余、西側は蜷川村分、東側は門上村分)がある。中町(六五間余)の北側には法林寺・高札場、南側には石垣新宮御旅所、上町(五〇間余)には町別当次兵衛屋敷、祇園町(七六間余)の北東角には祇園社・栄福寺、南側には手津屋悦五郎宅がある。新町は下新町(三七間余)・中新町(五五間余)・上新町(四〇間余)に分れ、北東角に天満宮がある。新川端に構があり新川を渡って橋口(一七間余、吉田村分)に至る。新川左岸に裏町、八幡社のある東町、谷川名・東名があり、小西名と門ノ内名の中央に天満宮二社、延命庵がある。当町の開設は田主丸町沿革(吉瀬家文書)によると慶長五年(一六〇〇)とされ、「田主丸村際之往還ニ始而市町ヲ建ツ」とある。田主丸町開基之覚(重松家文書)は年紀に疑問が残るが、田中久兵衛康政が知行していた慶長二〇年に田主丸町の吉瀬名頭吉瀬治部の抱地である藪を開き、町筋一二五間が立てられたとする。町筋の縄張役は森田浄和、間数竿打役は重松茂右衛門、算用役は梯原清左衛門、筆取役は白金屋才助、大庄屋は丹後、名頭は治部であったという。
田主丸町
たぬしまるまち
面積:五〇・九九平方キロ
浮羽郡の西部、筑後川の中流左岸に位置する。東は吉井町、南は耳納山地を挟み八女郡上陽町、西は久留米市、北の筑後川対岸は三井郡大刀洗町・甘木市・朝倉郡朝倉町。南部は耳納山地で、南東端に山地最高峰の鷹取山(八〇二・一メートル)がある。同山地の北斜面は断層崖をなし、山麓から筑後川に向かってはなだらかな勾配の筑後平野が広がる。町域中央を東西に国道二一〇号、北側の筑後川沿いを主要地方道久留米―浮羽線、南側を同浮羽―草野―久留米線が通り、南北には同甘木―田主丸線、同田主丸―黒木線などがある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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