戸代
とだい
大島の東端に突き出た半島の北半を占める村。半島の山稜によって南半分の沖友村に接する。宝永七年(一七一〇)土生の義民騒動(→下弓削村)に関連した人々が、連座の罪を逃れてひそかに移り住んだとされ(柳原家記録)、宗右衛門・宗平・清助ら六人株の伝承が残っている。
貞享元年(一六八四)の今治藩御改革領内調書には田畑四町五反(二七石五斗)、家数八軒、宮窪村のうちとあるが、寛延二年(一七四九)の戸代鵜嶋新田畑改帳によると宮窪村から分れて一村となり、新田畑二反九畝の別帳を作成している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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