日本歴史地名大系 「宮窪村」の解説 宮窪村みやのくぼむら 愛媛県:越智郡宮窪町宮窪村[現在地名]宮窪町宮窪(みやくぼ)大(おお)島東北部の大村。戸代(とだい)とカレイ山の両岬がつくる港湾に臨み、大(おお)川の三角州上に集落がある。鵜(う)島のほか見近(みちか)島・能(の)島・鯛崎(たいざき)島などの無人島をも含む。村の北部は宮窪(みやくぼ)瀬戸で伯方(はかた)島と対するが、ほかの三方は山の稜線で沖友(おきとも)村、仁江(にえ)村・福田(ふくだ)村(現吉海町)・余所国(よそくに)村と境する。宮窪の由来は村内字大明神(だいみようじん)に古社があったからともいう。村内には能島城跡をはじめ伊予水軍の史跡が多い。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「宮窪村 日損所、野山有、柴林有」とみえ、村高は三二一石三斗である。 宮窪村みやのくぼむら 新潟県:柏崎市宮窪村[現在地名]柏崎市宮之窪(みやのくぼ)東は古町(ふるまち)村、西は山越えで田屋(たや)村の山林、南は山口(やまぐち)村、北は北川原(きたがわら)村に入交じる。枝村に実相寺(じつそうじ)・一貫寺(いつかんじ)・郷原(ごうがはら)・岩原(いわはら)がある。当地鷲尾山不動院に安置する十一面観音像胸部胎内の延文三年(一三五八)六月一五日紀銘の墨書銘に「奉造立越後国鵜河庄内上条今泉村鷲尾寺」と記す。不動院の山号および在所を鷲尾(わしお)村と称した時期があったので、鵜河(うかわ)庄上条今泉(じようじよういまいずみ)村は当地付近をさすと考えられる。近世は元和二年(一六一六)から同四年の長峰藩牧野忠成領以外は高田藩領に属し、以後は柏崎町と同じ。元和四年の長岡藩知行目録では高六四一石九斗余。 宮窪村みやくぼむら 富山県:滑川市宮窪村[現在地名]滑川市宮窪早月(はやつき)川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、南は栃山七口新(とちやまななくちしん)村、南西は宮窪新村。「みやのくぼ」ともいう。天正年間(一五七三―九二)松倉(まつくら)城(現魚津市)城主椎名康胤の家臣久保某が当村に館を築いたと伝える(北加積村誌稿)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二〇八石、免四ツ二歩(三箇国高物成帳)。所属組は上島(かみじま)村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は彦九郎、家数一二(百姓一一・頭振一)、浄土真宗東方法専(ほうせん)寺(現単立)がある。同寺は元和九年(一六二三)浄心が当村に建立したが(貞享二年寺社由緒書上)、享保一八年以後に現在地の下小泉(しもこいずみ)に移転。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報