越智郡
おちぐん
面積:三七〇・九一平方キロ
朝倉村・玉川町・吉海町・宮窪町・伯方町・魚島村・弓削町・生名村・岩城村・大三島町・上浦町・関前村・波方町・大西町・菊間町
高縄半島の大部分(陸地部)と、その北方にある芸予諸島の島々(島嶼部)よりなる。北は安芸灘(斎灘)・備後灘を隔てて広島県に相対し、陸地部は高縄山脈の支脈により東予市・周桑郡・温泉郡・松山市・北条市に接する。半島の東部、燧灘沿岸には南北に細長い今治市がある。郡南部の山地に源を発する蒼社川は木地川はじめ多くの支流を合わせて玉川町内を北流し、今治市に入って燧灘に注ぐ。楢原山は標高一〇四二メートルで郡内の最高峰、島嶼部には大三島の鷲ヶ頭山、大島の念仏山などがある。全体に山がちで平坦地は乏しいが、丘陵地を中心によく開発され、温暖寡雨の気候とあいまって、果樹栽培が盛んである。
現越智郡の郡域は古来の野間郡の全域(波方町・大西町・菊間町)を含んでいる(→野間郡)。また、今治市の市制施行とそれ以降の市域の発展により、古代から続いた元の越智郡の中心部は現在今治市域内となっている。
〔原始・古代〕
弓削島・生名島の先土器、大三島・伯方島の縄文、大島および陸地部の弥生や古墳など、原始・古代の遺跡は多い。
越智郡は「和名抄」にみえ、「乎知」と訓じる。「国造本紀」によると乎致命を国造とする小市国が起源で、小千郡・尾智郡・乎知郡などとも書く。越智氏は乎致命の子孫とされ、律令制下、越智郡が設置されるとその子孫が次々と越智郡の郡司に任命され、付近の開発に当たったようである。平安時代以降は雑任国司にも任じられ、大祝氏・新居氏が勢力を伸ばし、鎌倉時代以降は河野氏・土居氏・得能氏ら越智氏の系統から出た武士団が伊予国の大半を支配した。
越智氏による越智郡の建郡については、「日本霊異記」に越智郡越智直(「予章記」によれば守興とする)の説話がある。しかし原史料上の郡名の初見は、正倉院御物中の天平一八年(七四六)九月の年紀をもつ「伊予国越智郡石井郷戸主葛木部竜調
六丈」という調布の記銘である。また天平八年の伊予国正税帳(正倉院文書)には「郡司 大領従八位上越智直広国 主政无位越智直東人」とあり、主政が置かれる中郡以上の郡は伊予では越智郡だけで、広国・東人らが越智郡の郡司に任じられていたことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 