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戸田忠昌 とだ ただまさ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

戸田忠昌 とだ-ただまさ

1632-1699 江戸時代前期の大名。
寛永9年生まれ。戸田忠継(ただつぐ)の長男。伯父(おじ)の三河(愛知県)田原藩主戸田忠能(ただよし)の養嗣子となり,跡をつぐ。肥後富岡藩主,武蔵(むさし)岩槻(いわつき)藩主をへて,貞享(じょうきょう)3年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主戸田家初代。その間,寺社奉行,京都所司代,老中とすすんだ。元禄(げんろく)12年9月10日死去。68歳。初名は忠治。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

戸田忠昌

没年:元禄12.9.10(1699.10.2)
生年:寛永9(1632)
江戸前期の老中。三河田原,肥後天草,武蔵岩槻,下総佐倉藩主。伊賀守,越前守。旗本戸田忠次の長男。母は家臣伴忠好の娘。田原に誕生。伯父の田原藩主戸田忠能の養子となり,正保4(1647)年襲封,1万石。寛文4(1664)年肥後天草2万1000石。同11年奏者番,寺社奉行を兼任,所領を武蔵,相模,下総,常陸のうちに移される。延宝4(1676)年京都所司代,所領を畿内に移され3万1000石。天和1(1681)年4万1000石,老中に進む。翌年岩槻に転封,5万1000石,貞享3(1686)年佐倉に移封,6万1000石。元禄7(1694)年7万1000石。老中在職のまま死去。転加封を重ねながら幕府の要職を歴任した,江戸前期の吏僚的老中。<参考文献>徳田浩淳編『史料宇都宮藩史』

(根岸茂夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の戸田忠昌の言及

【佐倉藩】より

…これは53年(承応2)のことらしい。60年(万治3)正信改易後,61年(寛文1)松平乗久(6万石),78年(延宝6)老中大久保忠朝,86年(貞享3)戸田忠昌(6万1000石),1701年(元禄14)老中稲葉正往(10万2000石),23年(享保8)老中松平乗邑(のりさと)(6万石),46年(延享3)老中堀田正亮(10万石,のち1万石加増)が入封するなど,佐倉は南関東の要地として歴代藩主の中には老中となった者が多い。 堀田正亮はさきに改易された正信の弟正俊の孫で,以後堀田氏はここに定着した。…

【戸田氏】より

…近世大名。正親町三条(おおぎまちさんじよう)家の支流ともいわれ,中世三河国の大族,戸田宗光より出る。宗光嫡流の康長は徳川家康から松平姓を賜り,所々に封じられて最後は信濃国松本城主となる(7万石)。その子の康直は播磨国明石城主に,次の光重は美濃国加納城主に,孫の光熙(みつひろ)は山城国淀城主に転封され,次の光慈(みつちか)は志摩国鳥羽城主,ついで1725年(享保10)に松本城主に移されて,以後明治に至った(松本藩)。…

※「戸田忠昌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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