寺社奉行(読み)ジシャブギョウ

デジタル大辞泉 「寺社奉行」の意味・読み・例文・類語

じしゃ‐ぶぎょう〔‐ブギヤウ〕【寺社奉行】

鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行最上位に位置し、楽人陰陽師おんようじ・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。

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精選版 日本国語大辞典 「寺社奉行」の意味・読み・例文・類語

じしゃ‐ぶぎょう‥ブギャウ【寺社奉行】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 鎌倉・室町幕府の職名の一つ。寺社の祭祀、法要、営繕、人事、訴訟など、一切の事務をつかさどったもの。鎌倉幕府は、はじめ必要に応じ奉行人から任命したが、のち定置のものとなり、別に六波羅にも置かれ、畿内近国の寺社を取り締まらせた。室町幕府は、前代の職制を踏襲し、三、四人を置いたが、のち寺奉行と社家奉行を分離し、また別に、八幡宮・神宮・山門・南都・寺社造営・住持などの諸奉行をも置き、職務を分掌させた。
    1. [初出の実例]「鎌倉中寺社奉行事更被之」(出典:吾妻鏡‐建仁三年(1203)一一月一五日)
  3. 江戸幕府の職名の一つ。全国の寺社およびその領民をはじめ、神官、僧侶、楽人、盲人、陰陽師、連歌師などを統轄し、また、私領相互間の訴訟を受理したもの。奏者番である譜代大名から選任され、四、五人を定員とした。勘定奉行町奉行と合わせて三奉行と称され、評定所一座の構成員として、重要事件の裁判・評議を担当。属吏に、家臣から選出した留役、寺社役、取次などの役職があり、自己の江戸屋敷を役所として、月番で執務した。
    1. [初出の実例]「新地を古跡に被仰付覚〈略〉寺社奉行中江、老中、牧野備後守列座、申渡之」(出典:徳川禁令考‐前集・第五・巻四〇・元祿五年(1692)一一月)

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改訂新版 世界大百科事典 「寺社奉行」の意味・わかりやすい解説

寺社奉行 (じしゃぶぎょう)

鎌倉・室町幕府において寺社関係の訴訟を扱った役職。また幕府と関係の深い寺社に個別に配置されて,寺社内部の紛争の処理や幕府への訴訟の取次ぎなどに当たった奉行人(別奉行)をもいう。相互に関係があるが,便宜的に二つに分けて記す。

(1)前者は1194年(建久5)5月,右京進中原季時が寺社の訴えを執り申すべきことを命じられた《吾妻鏡》の記事を初見とし,鎌倉幕府では太田時連や二階堂貞雄などがこの職についており,訴訟事務の練達者が任じられる重職であった。六波羅探題にもこれが置かれ,建武政権下では北畠顕家の奥州将軍府にもみえている。室町幕府にも早くから数名の奉行人がこの職に任じられ,神官,神人,僧侶の任免,社寺の訴訟処理に当たっているが,禅寺に関しては禅律方(ぜんりつかた)頭人,禅律奉行を置いて住持の移転や法儀などのことを沙汰させており,また寺奉行と社家奉行の職務分掌も認められる。しかし足利義満以降の将軍親裁体制の整備につれ,しだいに各寺社別におかれた奉行人の活躍が目だつようになる。なお鎌倉府にもこれが置かれており,戦国大名の中にもこれを任じたものがある。

(2)別奉行としての寺社奉行の前例は,《吾妻鏡》建久5年12月,鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉中の御願寺の奉行人として大庭景能以下各数名の御家人を定めたことを初見とし,しだいに幕府と関係の深い東国の寺社,日光,宇都宮,箱根,伊豆山,三島,熱田,諏訪などにも奉行人が配置されるようになり,将軍家の祈禱や所領寄進,寺社内部の訴訟処理に当たったものとみられる。京都に幕府を開いた室町幕府も,早くからこうした寺社別の奉行人を配置したものと思われるが,史料的には将軍義満以降,ことに義政期にその活躍がめざましくなる。この時期には東寺,石清水,北野社,山門,南都興福寺奉行をはじめ,主要な禅宗寺院ごとに別奉行が配置され,布施,飯尾,松田,清などの幕府奉行人がこれに任じられて,幕府の命令伝達,寺社訴訟の幕府への取次ぎ,内部の紛争処理に当たっている。幕府への訴訟はこの別奉行が披露し,裁決に当たってはその意見が徴され,寺社間の相論では双方の別奉行の談合が行われ,裁決の伝達・執行もこれに命じられている。また寺社内部の所領紛争では,別奉行の私宅で相論当事者の対決が行われた事例もある(《蔭涼軒日録》文明17年12月13日条)。当時の寺社では守護や奉公衆との間の所領相論が山積し,内部の紛争も多かったので,その迅速な処理には別奉行の役割がきわめて大きい。寺社側はしばしば金品を彼らに贈って私的関係を深め,これは奉行人の生計にも重要な意味をもっていた。有力寺社の別奉行は本・相両奉行の2人制が普通であるが,その選定は寺社側が奉行人を特定して申請し,これによって将軍が任命するのが常であり,訴訟実務に練達した有勢の奉行人は,いくつもの別奉行を兼任していることが多い。なお伊勢神宮には神宮頭人,開闔(かいこう),奉行が任じられ,造替や役夫工米などのことにも当たっている。
執筆者:

江戸幕府の三奉行の一つで,全国の寺社と寺社領の管理や宗教統制をつかさどった。1612年(慶長17)徳川家康以心崇伝板倉勝重所司代)の2人に寺社行政を担うように命じたが,それ以前から崇伝はその任に当たっていたことが彼の自著《本光国師日記》によって判明する。個人によって体現されていた寺院行政も,個人の死後は職制として幕府機構の中に設定された。崇伝の死後2年の35年(寛永12)11月9日,〈寺社幷遠国訴訟の奉行すべし〉と奏者番であった松平出雲守勝隆と安藤右京進重長,堀市正利重が命じられたのが職制としての寺社奉行の初設である。62年(寛文2)2月に,老中所管であった寺社奉行は将軍直属に変わり,幕末に至る。寺社奉行には譜代大名の奏者番が兼職をした。人数は常時3~5人であったが,だいたい4人で務め,月ごとに順番で1人が月番奉行となった。

 寺社奉行の支配統轄下にあったのは,全国の寺社領農民や門前町人,および散在する寺院僧侶,修験者,神社神職,陰陽師,虚無僧,勧進比丘尼などの宗教者や,紅葉山坊主,楽人,碁将棊,連歌師,古筆見,大神楽など諸職種のものたちであった。寺社門前地のうち江戸府内に限り,1745年(延享2)以降町奉行支配にふりかえられた。江戸町の治安を一括して町奉行が統轄するためであった。ところで全国に散在する宗教者の統制は,寺社奉行が直接行うのではなく,本山・本寺などに編成させ,掌握させる方式がとられた。本山・本寺を中心に教団組織化が進められたものの,本山・本寺の多くが京都など江戸以外に所在しており,寺社奉行からの指示・統制は遅れがちになった。そこで,どの宗派にも江戸に役所,触頭(ふれがしら)(僧録所)を開設させ,寺社奉行から教団組織を直接統制するための窓口として機能させた。いわゆる江戸触頭である。

 寺社領農民や宗教者,その他寺社奉行管轄下の者からの請願書・訴訟は,月番奉行が受理して決済するが,他の支配領地にまたがる場合や重罪の場合は,評定所にもちこまれた。寺社奉行所は月番にあたる大名の上屋敷を庁衙として用いた。奉行所の役人には幕府の与力・同心を用いずに,担当大名の家臣が手留役,寺社役,取次および検使の職務を遂行した。手留役は4~5人置かれ,関係文書の作成をする書記役であった。寺社役も4~5人置かれ,僧侶・神職など宗教者の統制を担い,寺社向けの幕府貸付金を管掌した。取次は十数人おり,願書・訴状を受理するほか,関係事務の整理に当たった。検使には大小があり,大検使は寺社役がその職務を兼ねたが,江戸府内の管轄(持場)の寺社を,騎乗して小検使を随行させて巡検した。寺社地における犯罪取締りのほかに,興行(勧進相撲,開帳,富突きなど)の監督などにも当たった。監察する持場は,在任中の4~5人の寺社奉行たちが,月番であるかないかに関係なく,江戸府内を4~5ヵ所(およそ,中心部と城北,城南,城東,城西地域)に分割して,その地域内の寺社(全府内で1500余軒,多い地域で500余軒,少ない中心部は52軒)を日ごとに監察した。江戸以外の全国に関してはすべて月番奉行が訴訟などを取り扱うことで,窓口は一元化していたが,府内は非番の寺社奉行の持場からの訴訟などが必ずしも月番奉行に持ち込まれず,ときには職務遂行上の混乱もあった。しかし,寺社奉行の新旧交代の際,新任者は持場を受け継ぐ形をとるので,奉行の交代があっても訴訟などの継続審議が可能になるという利点もあった。

多様な職掌と全国にわたる広範な地域を管轄したことから,寺社奉行役人は,先例を調べ書き残す努力をはらった。その一部が,寺社奉行関係史料として残されている。《祠部職掌類聚》(内閣文庫所蔵)は,寺社奉行所が管掌していた寺社の朱印状,条目や法令,諸記録などを集録したものである。1791年(寛政3)の記事が内容の下限であり,その当時の成立とみられる。著者は寺社奉行所役人と考えられるが不詳である。《従事抄書》(東京都立大学付属図書館所蔵,水野家文書)は,勤方の定則や規矩となる心得的な史料で,寺社奉行所の職務内容を知る基本史料である。《祠曹雑識》(内閣文庫所蔵)は1834年(天保5)の成立で,慶長期(1596-1615)から天保期(1830-44)に至る寺社行政や訴訟に関する記録類のほか,見聞や沿革などの実に多様な記事がとどめられている。著者は1831年から37年まで寺社奉行を務めた間部下総守詮勝の家臣で,寺社役を担った者である。この史料の特徴は著者の関心が実に多岐にわたっていることと,寺社奉行から老中に上申しその可否が記されるなど,幕閣の評議内容を知りうる点である。後者の特色をもつ史料には,ほかに《旧幕府引継書》(国立国会図書館所蔵)の〈寺社奉行書類〉と《大岡忠相日記》(大岡忠輔蔵)とがある。〈寺社奉行書類〉とは,寺社奉行関係の史料群を一括した呼称であるが,その中には寺社奉行の取り扱った1事件を1冊ごとにその始末を記した〈寺社奉行一件書類〉や,寺社奉行よりの上申書,諸届,諸願などを書き記した〈同役進達留〉,あるいは〈宮門跡貸附金〉〈開帳免許帳〉などが含まれている。《大岡忠相日記》は老中・寺社奉行などの個々人が寺社行政に関して具体的にいかなる意見をもっていたかをうかがい知ることができる。
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百科事典マイペディア 「寺社奉行」の意味・わかりやすい解説

寺社奉行【じしゃぶぎょう】

鎌倉・室町・江戸幕府の職名。鎌倉・室町幕府では寺社関係の訴訟を取り扱った役職で,ほかに幕府と関係の深い寺社に個別に置いた奉行人(別奉行(べつぶぎょう))をもいった。江戸時代には,全国の寺社および寺社領民の支配や訴訟審理を管掌し,宗教統制をつかさどった。職制としては1635年設置され,譜代大名(ふだいだいみょう)から3〜5名(多くは4名)が任じられた。初めは老中(ろうじゅう)所管,1662年以降は将軍の直属となり,三奉行(勘定・町・寺社)の内では最上の地位にあった。→奏者番(そうしゃばん)/勘定奉行(かんじょうぶぎょう)/町奉行(まちぶぎょう)
→関連項目江戸幕府大岡忠相大岡忠相日記御仕置例類集三奉行将棋所所司代神社土浦藩天文方評定所奉行触頭本末制度水野忠邦役方

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺社奉行」の意味・わかりやすい解説

寺社奉行
じしゃぶぎょう

江戸幕府の職名。1635年(寛永12)創置。これ以前の寺社方は僧録司金地院崇伝(こんちいんすうでん)の支配下にあった。定員は4人(将軍直属、大名役、諸大夫(しょだいぶ)、芙蓉間詰(ふようのまづめ))。町(まち)・勘定(かんじょう)の両奉行(旗本役)とともに三奉行と称し、1658年(万治1)以降は奏者番(そうじゃばん)(員数20~30人)のなかから兼帯した。1862年(文久2)奏者番は廃止されて本役となった。幕閣枢要の地位を占め、『明良帯録(めいりょうたいろく)』に「器量人才之仁(さいのじん)にあらざれば其(その)任に堪(たえ)ず」とあり、譜代(ふだい)大名はここを振り出しに若年寄(わかどしより)や大坂城代、京都所司代(しょしだい)あるいは老中などの重職へと上った。自邸を役所とし、月番を定めて政務をみた。全国の神官、僧侶(そうりょ)をはじめ、楽人(がくにん)、検校(けんぎょう)、連歌師、陰陽師(おんみょうじ)、古筆見(こひつみ)、碁将棋(ごしょうぎ)所および幕府縁故の農工商を支配し、また、関八州、五畿内(きない)、近江(おうみ)、丹波(たんば)、播磨(はりま)を除いた、その他の諸国私領の訴訟を聴断した。訴訟のうち、支配下のものは内寄合(うちよりあい)と称し、月番の邸に同役と会して裁決したが、他の支配下のものはかならず評定所(ひょうじょうしょ)において諸役と合議し決定した。属僚に寺社奉行吟味物調役(ぎんみものしらべやく)、神道方(しんとうがた)、紅葉山(もみじやま)火之番、紅葉山御宮御霊屋付坊主(おみやみたまやつきぼうず)、紅葉山御高盛(おたかもり)坊主、紅葉山御宮付御縁頬(ごえんづら)坊主、紅葉山御霊屋付御縁頬坊主、紅葉山御掃除之者組頭、紅葉山御高盛六尺があり、また家臣のなかから手留役、寺社役、取次、大検使、小検使などの役人が任命されて、その職務を分掌した。ちなみに与力、同心は置かれなかった。

[北原章男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺社奉行」の意味・わかりやすい解説

寺社奉行
じしゃぶぎょう

鎌倉,室町,江戸時代に宗教行政を司った役所。鎌倉時代には主として幕府直轄領の寺社を監督した。室町幕府は鎌倉幕府の制度を踏襲し,江戸時代には,初め金地院崇伝 (→崇伝 ) や板倉重昌が寺社行政を行なっていたが,崇伝の死後寛永 12 (1635) 年全国の寺社ならびに寺社領を監督する寺社奉行の職制が確定した。その他,キリシタン取締りや関八州外の旗本の訴訟裁判をも司った。定員は4名で,奏者番を兼ね,譜代大名から選任された。幕府における地位はいわゆる三奉行中最上位におかれ,また権限も最も強く,自宅を役宅としていた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寺社奉行」の解説

寺社奉行
じしゃぶぎょう

江戸幕府の職名。1635年(寛永12)初設。奏者番が兼職。大名役で,寺社・町・勘定の3奉行の最上位。定員4人(3~5人),うち1人が月番奉行となる。62年(寛文2)老中所管から将軍直属になった。職掌は全国の寺社と寺社領の管理および宗教統制,関八州外の私領の訴訟など。また寺社領の領民,神官・僧尼や,楽人・検校(けんぎょう)・連歌師・陰陽師・碁将棋所など諸職の者を統轄した。自邸を役宅とし,下僚には家臣(寺社役・平留役・取次,大・小検使など)を用いたが,幕府から吟味物調役が出向。大坂城代,京都所司代をへて老中になる昇進コースがあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「寺社奉行」の解説

寺社奉行
じしゃぶぎょう

江戸時代,幕府の職名
定員はおよそ4名で,全国の寺社・寺社領の人民・僧侶・神職などを支配。三奉行中最も地位が高く,譜代大名から選任された。評定所の構成員。

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世界大百科事典(旧版)内の寺社奉行の言及

【奏者番】より

…任務は年始・五節句等に将軍に謁見する大名等の姓名を披露すること,献上品・下賜品の受渡し,殿中で元服する大名に作法を指導すること,三家・大名家への上使等であった。また寺社奉行は1658年(万治1)以降奏者番より兼帯する例となった。1862年(文久2)に至りいったん廃止されたが,翌年旧に復した。…

【評定所】より

…評定所一座の勤務時間は朝卯半刻(午前7時ごろ)から夕申刻(午後4時ごろ)までであった。評定所で取り扱う事件は,公事出入(民事)では原告,被告の支配が異なる事件で,寺社および寺社領,関八州以外の私領からの出訴は月番の寺社奉行が目安裏判をして評定所へ送り,江戸町中からの目安には町奉行が,関八州の幕領,私領および関八州外の幕領からの出訴は勘定奉行が目安裏判をすることになっていた。詮議事(刑事)では,とくに重要な事件や複雑な事件,あるいは上級武士にかかわる事件を取り扱った。…

※「寺社奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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