三国湊(読み)みくにみなと

日本歴史地名大系 「三国湊」の解説

三国湊
みくにみなと

[現在地名]三国町三国・三国東みくにひがし汐見しおみ桜谷さくらだに岩崎いわさき玉井たまい中元なかもと上西かみにし大門だいもん下西しもにし元新もとしんまつしただいにしき喜宝きほう末広すえひろ今新いましん平木ひらき

竹田たけだ川と九頭竜くずりゆう川の合流する右岸に位置する。近世初期までこの辺りは三国浦といい、その津を三国湊と称したらしい。町内治定改方記録(国立史料館蔵「三国町諸用記録」所収)に「当所いにしへハ三国浦と相となへ候得共貞享二丑年御国御絵(図)出来候節大公儀へ三国湊と書記御出し已来湊ニ相改リ候」とあり、三国湊の名は貞享二年(一六八五)以降、三国浦をも含めた呼称となった。

「三国」の名はすでに「日本書紀」継体天皇即位前紀に、継体天皇の母振媛の居住地として「三国坂中井」が記されており、また「日本書紀」のその後の記述や「続日本紀」には三国公・三国真人とよばれた豪族がしばしば登場する。この三国氏の根拠地は坂井郡であったようだが、振媛の居住地や、三国氏の本拠地を当湊とすることには疑義もある。「続日本紀」和銅二年(七〇九)七月一三日条に蝦夷出兵に当たり、越前・越中・越後・佐渡の四国から船一〇〇艘を徴発した記事がみえ、当湊も船を出したものと思われる。

また同書宝亀九年(七七八)九月二日条に、送高麗使正六位上高麗朝臣殿嗣が「坂井郡三国湊」に着いたことがみえ、古くからの湊であった。

〔湊〕

中世の当湊は奈良興福寺領の坪江つぼえ庄下郷に属したらしく「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(大乗院文書)の永仁五年(一二九七)の検注によれば荘官の湊雑掌や番頭がいた。一方、朝廷の内膳司支配下の率分関も置かれており、永徳元年(一三八一)には、関料(津料)徴収のみでなく、三国湊の下地支配をも要求する内膳司と、興福寺との間で争論が起こっている(三国町史)。嘉元四年(一三〇六)北条氏支配下の津軽船の一艘が当浦に入港した際、三ヶ浦(梶浦・崎浦・安島浦)の預所代左衛門次郎・刀禰十郎権守・加持羅(梶浦)藤内・阿久(ん)多宇(安島)刀禰太郎、当浦の五郎三郎入道・信舜房などが多数の荘民を率い、難破船と称して積荷を強奪する事件が起こっている(大乗院文書「雑々引付」)。また若狭国志積しつみ(現小浜市)の廻船に対し、足羽あすわ(現福井市)神宮寺勧進聖が、勧進と称して三国湊で関税米を課徴するということもあり、その不法を若狭の地頭が三国湊政所に訴えている(年不詳「三方寺内志積浦廻船人等申状案」安倍家文書)

また「朝倉始末記」には「(天文)廿年七月廿一日、唐船湊口ヘ来リ、同廿五日ニ湊ヘ入ル、唐人其数百廿人、船頭ハ号南山(中略)人民群集シテ未聞ノ唇ヲタンズ、商買ノ旅客紅袖ヲ浦嵐ニヒルガヘシ、見物ノ貴賤彩衣ヲ雲霞ニ簇ス者也」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「三国湊」の意味・わかりやすい解説

三国湊 (みくにみなと)

越前国(福井県)坂井郡の九頭竜川河口の港。竹田川が合流する九頭竜川の右岸に位置する。

古くは大和朝廷の水軍の基地として機能したと見られる。また日本海を通して大陸との交渉も見られ,778年(宝亀9)には2年前に来日した渤海(ぼつかい)使を送り届けた高麗殿嗣が渤海の送使とともに三国湊に帰着した。古代越前には多数の東大寺領荘園が営まれたが,その収穫は九頭竜川を下り三国湊から海路敦賀津(つるがのつ)に送られ,そこで陸揚げされたように,三国湊は経済的にも大きな役割を果たした。
執筆者: 中世には三国湊に問丸(といまる)が存在し,荘園年貢の運送などを行っていた。また塩,榑(くれ),魚などを積んだ船が出入りし,若狭遠敷(おにゆう)郡志積(しつみ)浦・矢代浦(現,小浜市)の船や,遠くは津軽船,さらに1551年(天文20)には唐船の入港もあった。戦国末期には絹を扱う軽物(かるもの)座と薬売を含む唐人座も存在した。三国湊は興福寺領坪江下郷(坪江郷)に属しており,13世紀末ころの収納帳には田数11町1反120歩,年貢米98.468石,公事として夫役銭,地子銭,長者銭,越中網鮭,能登鯖,在家鵜飼鮎などが記されている。三国湊には鎌倉時代後期に関所が設けられ,長谷寺などが津料を徴収していたが,1316年(正和5)に武家使者の入部と国司津料の徴収が行われたため興福寺の湊雑掌(ざつしよう)が津料廃止を求めている。また三国湊での交易に対して交易(きようやく)上分が課されていたが,同年この上分は内侍所(ないしどころ)と興福寺が半分宛て徴収することと定められた。33年(元弘3)6月には後醍醐天皇の新政に呼応したとみられる三国湊千手寺僧などが強盗,殺害を行っており,のち,南朝方の畑時能は湊城(千手寺城)に拠って北朝方と戦っている。南北朝期以降は三国湊の交易上分および付属田畠を宮内省内膳司が支配していたが,81年(弘和1・永徳1),1412年(応永19)には近隣武士の押妨が知られ,66年(文正1)にも内膳司と興福寺が三国湊の所領について争っている。また1396年(応永3)には河口の中州に形成された出来島(道実(どうじつ)島)の帰属をめぐって三国湊と対岸の阿古江との争いがあった。室町期になると興福寺領三国湊の代官にはこの地の土豪堀江氏や小布施氏が任じられており,朝倉氏支配下では朝倉光玖が代官となって三国湊を管掌下に置いた。鎌倉末期には少なくとも50軒の在家農民がいたが,その後の町の様相は,一部を除いてよくわからない。織豊期には豪商森田三郎左衛門が織田信長豊臣秀吉の命令をうけて廻船や船留に活躍し,近世における頭町人の地位を築いている。
執筆者:

織田信長,豊臣秀吉の保護統制ののち,1600年(慶長5)から幕末まで福井藩領で,藩は口留番所を置き,沖ノ口法度を定めて保護したので,越前諸藩の物資の積出港,西廻航路の中継港として発展した。金津奉行の支配に属し,町役人に問丸,庄屋,地方庄屋,船庄屋,上新町庄屋,問屋年番があり,有力町人を頭町人とした。九頭竜・竹田両川に沿って近世初期には町が成立した。有力商人が居住し津出米を納める米蔵も置かれた下町と,17世紀の終りころから北西部の高台に形成された上新町に大きく分かれる。町数は1815年(文化12)の《越前国名蹟考》では合わせて23町,65年(慶応1)の《三国鑑》では下町が表町14町,裏町・門前16町,上新町は表町7町,裏町4町とする。戸口は1699年(元禄12)1030軒,1725年(享保10)1080軒・5300人余。1865年には1581軒・6437人で,この年のおもな職業構成は,船大工70,桶屋68,大工48,問屋47,鍛冶と古手屋が40などであった。船数は1699年海上船14,川舟35,1865年には渡海船64,川舟29,その他53を数え,また入船数は1699年1月から7月までで2200艘を超えている。文化的にも富商の経済力を背景に,庶民教育の斯文館,俳諧の日和山吟社,たんすや仏壇などの工芸にみるべきものがある。明治後期に北陸本線,次いで三国線が開通し,港としての三国は衰退したが,今に残る民家や豪華な三国祭などから,往時の繁栄はしのばれる。

 なお,三国湊対岸の阿古江はのちには新保と呼ばれ,江戸時代には町場があり道実家など交易で栄えた富商がいた。1644年(正保1)新保の船頭ら58人は船が難破して漂流,その経緯を記した《韃靼(だつたん)漂流記》が残る。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三国湊」の意味・わかりやすい解説

三国湊
みくにみなと

越前国坂井郡、九頭竜川(くずりゅうがわ)河口にあった湊。現在の福井県坂井市三国町。『続日本紀(しょくにほんぎ)』宝亀9年(778)9月2日条の渤海使(ぼっかいし)来着の記録が初見。早くから越前の玄関口であった。中世には興福寺領坪江下(つぼえしも)郷に属し、室町期には堀江氏や小布施(おぶせ)氏が代官であった。戦国期には朝倉氏、柴田氏が支配し、近世には福井藩領となった。沖ノ口法度(おきのくちはっと)や沖ノ口条目が定められ、口留番所が設置されるなど、福井城下の外港として保護、統制された。西廻海運(にしまわりかいうん)の発達とともに、その中継港、越前の物資の集散地として栄え、1864年(元治1)には戸数1581軒、人口6437人を数えた。1871年(明治4)に滝谷(たきだに)出村と合併して坂井港と改称、1889年に坂井港のうちの21町と三国浦、滝谷村が合併して三国町となった。河口に位置するため堆砂がひどく、さらに明治後期の北陸本線とその支線である三国線という鉄道の開通により衰退し漁港となった。三国祭の山車や旧豪商の民家に栄華の名残がみられる。

[海道静香]

『福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会共編『福井県郷土叢書 第6集 小浜・敦賀・三国湊史料』(1959・福井県郷土誌懇談会)』『三国町史編纂委員会編『三国町史』全5冊(1964~1975・三国町教育委員会)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三国湊」の解説

三国湊
みくにみなと

福井県北西部(現,坂井市三国町)に位置する九頭竜(くずりゅう)川の河口港。中世には興福寺領坪江・河口両荘から荘園貢租が積み出され,また戦国期には唐船も入津した。近世に入ると福井藩の外港として発展した。江戸後期から明治前期にかけて北前船主がでて栄えたが,明治後期の北陸本線開通以後は衰退した。1871年(明治4)に滝谷とともに坂井港と称した。89年三国町となるとともに三国港と称した。港突堤は重文。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三国湊」の解説

三国湊
みくにみなと

日本海沿岸の港町で,現在の福井県坂井郡三国町
中世,興福寺領河口・坪江庄の年貢・産物の搬出港として発達。戦国時代,北陸の物資輸送の要港となり,近世北国第一の港と称された。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「三国湊」の解説

三国湊
(通称)
さんごくみなと

歌舞伎浄瑠璃の外題。
元の外題
三国湊名所帷子
初演
安永4.7(大坂・小川吉太郎座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三国湊の言及

【九頭竜川】より

…河口近く,三国の町並みの南で九頭竜川に入る竹田川は,丸岡町東方の石川県境の山地に発し,坂井平野に出て自然堤防の発達が著しい。竹田川合流点付近が三国湊発祥の地であり,近世まで舟運は本流は勝山,日野川は鯖江の南の白鬼女(しらきじよ)(支流吉野瀬川は武生の北の柳原),足羽川は福井市東端の宿布,竹田川は金津まで通じ,物資を集散して三国湊の繁栄を支えた。福井平野が沈降性の低地であるため,本支流とも谷口の扇状地は発達が悪く,低湿な三角州状の沖積地が広い。…

【坪江郷】より

…年貢・夫役は反別賦課,細々済物は在家別・名(みよう)別賦課であった。 鎌倉末期には郷内において悪党の活動が活発化し,1333年(元弘3)三国湊の悪党による強盗・殺害事件,翌年には上郷名主らの供料・御服横領などが続いた。室町期には在地では武士・国人の侵略,興福寺内では氏人たちの不忠が続き,さらに応仁・文明の乱のなかで甲斐氏を破った朝倉氏が1470年(文明2)坪江荘悉(ことごと)くの知行を申し出,72年半済(はんぜい)をてこに一荘全体を掌握,その一族と家臣堀江氏が荘内諸代官を占めた。…

※「三国湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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