コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

三国湊 みくにみなと

世界大百科事典 第2版の解説

みくにみなと【三国湊】

越前国(福井県)坂井郡の九頭竜川河口の港。竹田川が合流する九頭竜川の右岸に位置する。
[古代・中世]
 古くは大和朝廷の水軍の基地として機能したと見られる。また日本海を通して大陸との交渉も見られ,778年(宝亀9)には2年前に来日した渤海(ぼつかい)使を送り届けた高麗殿嗣が渤海の送使とともに三国湊に帰着した。古代越前には多数の東大寺領荘園が営まれたが,その収穫は九頭竜川を下り三国湊から海路敦賀津(つるがのつ)に送られ,そこで陸揚げされたように,三国湊は経済的にも大きな役割を果たした。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三国湊
みくにみなと

越前国坂井郡、九頭竜川(くずりゅうがわ)河口にあった湊。現在の福井県坂井市三国町。『続日本紀(しょくにほんぎ)』宝亀9年(778)9月2日条の渤海使(ぼっかいし)来着の記録が初見。早くから越前の玄関口であった。中世には興福寺領坪江下(つぼえしも)郷に属し、室町期には堀江氏や小布施(おぶせ)氏が代官であった。戦国期には朝倉氏、柴田氏が支配し、近世には福井藩領となった。沖ノ口法度(おきのくちはっと)や沖ノ口条目が定められ、口留番所が設置されるなど、福井城下の外港として保護、統制された。西廻海運(にしまわりかいうん)の発達とともに、その中継港、越前の物資の集散地として栄え、1864年(元治1)には戸数1581軒、人口6437人を数えた。1871年(明治4)に滝谷(たきだに)出村と合併して坂井港と改称、1889年に坂井港のうちの21町と三国浦、滝谷村が合併して三国町となった。河口に位置するため堆砂がひどく、さらに明治後期の北陸本線とその支線である三国線という鉄道の開通により衰退し漁港となった。三国祭の山車や旧豪商の民家に栄華の名残がみられる。[海道静香]
『福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会共編『福井県郷土叢書 第6集 小浜・敦賀・三国湊史料』(1959・福井県郷土誌懇談会) ▽三国町史編纂委員会編『三国町史』全5冊(1964~1975・三国町教育委員会)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の三国湊の言及

【九頭竜川】より

…河口近く,三国の町並みの南で九頭竜川に入る竹田川は,丸岡町東方の石川県境の山地に発し,坂井平野に出て自然堤防の発達が著しい。竹田川合流点付近が三国湊発祥の地であり,近世まで舟運は本流は勝山,日野川は鯖江の南の白鬼女(しらきじよ)(支流吉野瀬川は武生の北の柳原),足羽川は福井市東端の宿布,竹田川は金津まで通じ,物資を集散して三国湊の繁栄を支えた。福井平野が沈降性の低地であるため,本支流とも谷口の扇状地は発達が悪く,低湿な三角州状の沖積地が広い。…

【坪江郷】より

…年貢・夫役は反別賦課,細々済物は在家別・名(みよう)別賦課であった。 鎌倉末期には郷内において悪党の活動が活発化し,1333年(元弘3)三国湊の悪党による強盗・殺害事件,翌年には上郷名主らの供料・御服横領などが続いた。室町期には在地では武士・国人の侵略,興福寺内では氏人たちの不忠が続き,さらに応仁・文明の乱のなかで甲斐氏を破った朝倉氏が1470年(文明2)坪江荘悉(ことごと)くの知行を申し出,72年半済(はんぜい)をてこに一荘全体を掌握,その一族と家臣堀江氏が荘内諸代官を占めた。…

※「三国湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

三国湊の関連キーワード森田三郎右衛門三国(旧町名)みくに龍翔館坂井(市)三国[町]富岡恋山開西廻海運室町時代北潟湖内田庸湊城港町金津

今日のキーワード

俳句甲子園

1998年から松山市で開かれる全国高等学校俳句選手権大会。高校生が5人1組で句の優劣をディベートで競い合う。チームでの勝敗とは別に、個人の最優秀句も選ぶ。今年は過去最多の41都道府県から121校、15...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

三国湊の関連情報