摩国(読み)さつまのくに

日本歴史地名大系 「摩国」の解説

摩国
さつまのくに

西海道の一国。九州の南西端を占め、東は大隅国および一部日向国、北は肥後国に接した。現在、全域が鹿児島県に属する。「和名抄」東急本国郡部に「散豆万」の訓がある。

古代

〔摩国の成立〕

地名としての薩摩の初見は「日本書紀」白雉四年(六五三)七月条の「薩麻之曲・竹嶋之間」における遣唐使船遭難記事であるが、七世紀まではおもに阿多あたの呼称が用いられた。天武一一年(六八二)阿多隼人・大隅隼人が朝貢を開始し(同書同年七月三日条)、これ以降南九州は筑紫大宰によって統括されることになる。持統六年(六九二)政府は大隅と阿多に僧侶を派遣し、仏教教化策をとった(同書同年閏五月一五日条)。文武四年(七〇〇)には肥人たちを従えて覓国使刑部真木らを剽劫した薩末比売と久売と波豆、評の督の衣君県と助督の衣君弖自美・肝衝難波らが竺志惣領によって処罰されている(「続日本紀」同年六月三日条)。衣評の比定地には頴娃えい郡説と川内せんだい市説があるが、この記事から郡に先行する評が薩摩半島に設定されていたことがわかる。大宝二年(七〇二)大宰府は管内国司・郡司の銓擬権掌握を梃子に令制国・郡の設置と戸籍作成を推進しようとしたが(同書同年三月三〇日条など)、これに反対する動きが起こり、政府はこの反乱鎮圧後、薩摩国を設置し造籍に着手した(同書同年八月一日条など)。同年一〇月唱更国司ともよばれた薩摩国司らは国内要害の地に柵・戍の設置を申請し、許可されている(同書同月三日条)。いわゆる隼人の反乱は中央政府による律令制の押付けに対する抵抗の側面をもっている。薩摩国成立後、隼人たちは令制国単位に把握されることになったようで、阿多隼人は薩摩隼人とよばれることになった。

なお国名の表記に関して、大宰府出土木簡や天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)では薩麻とされ、「続日本紀」では薩摩に統一されているので、天平八年から延暦一六年(七九七)の間に薩麻から薩摩の表記に変わったと考えられる。また前掲「続日本紀」大宝二年一〇月三日条には「唱更国司等」の下に「今薩摩国也」という注が施されている。唱更国司を唱更しようこう国の司と考え、唱更国という国があり、薩摩国が唱更国ともよばれていたという理解もあるが、むしろ唱更の国司として唱更(唐の制度では辺境の守備にあたることを意味する)の任務を帯びた国司と解するのが妥当であろう。このように理解すると唱更国司は一般名詞となり、この記事が同書同年八月一日条にみえる薩摩・たね地方の反乱(主力は薩摩隼人と考えられる)を受けてとられた措置とみられる点や、「今薩摩国也」の注が八世紀末の「続日本紀」編纂段階で付けられたことを考え合せれば、唱更国司は大宝二年一〇月の段階で隼人に対する施策の前線に位置づけられていた薩摩国と日向国(のちの大隅国を含む)の国司と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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