加世田別符(読み)かせだべつぷ

日本歴史地名大系 「加世田別符」の解説

加世田別符
かせだべつぷ

平安時代後期に阿多あた郡から分離して成立したと考えられる別符。現在の加世田市を中心として、川辺郡大浦おおうら町・笠沙かささ町および同郡坊津ぼうのつ町の一部に比定される。薩摩半島の南西部にあたり、東シナ海に面する。別符は別府とも記され、別府氏は別符氏とも記される。戦国時代には加世田庄の呼称があり、中世史料では加世田別符を単に別府と記すこともあった。

〔鎌倉時代〕

開発領主は永万元年(一一六五)七月日の寺家政所下文案(新田神社文書)にみえる別府五郎忠明とみられ、別府氏は薩摩平氏の一族とされる。薩摩国建久図田帳によれば加世田別符は一〇〇町で、豊前宇佐弥勒寺領益山ますやま庄二五町と公領七五町で構成されていた。公領は山田やまだ村二〇町(名主肥前国住人石井入道)千与富ちよとみ四〇町(郷司弥平五信忠)村原むらはら一五町(没官領、地頭佐女島四郎)からなり、地頭島津忠久であった。千与富の郷司平信忠(別府五郎とも)は忠明の子息にあたり、御家人でもあった(建久八年一二月二四日「島津忠久内裏大番役支配注文」旧記雑録)。また村原は阿多宣澄からの没収地である。建保元年(一二一三)頃には、河辺郡司平太道綱が「別符」(加世田別符)に対して濫妨を加えている(元仁二年三月日「弥勒寺寺家公文所下文」島津家文書など)。また弥勒寺領益山庄の地頭益山忠澄と島津庄内の「阿多別符」(加世田別符)郡司平氏女との間で、「上野畠并阿世串原」をめぐる境相論があった。嘉禎二年(一二三六)頃の両本所間の裁判では忠澄側が有利であったが、平氏女側が鎌倉幕府の権威をかりて下知に従わなかったため再度相論となり、仁治二年(一二四一)幕府は平氏女に下知に従うよう命じている(以上、同年九月一五日「関東御教書」同文書)

加世田別符の地頭職は、嘉禄三年(一二二七)六月一八日に島津忠久から忠時(忠義)に譲られたが(「島津忠久譲状」島津家文書)、忠時から誰に譲られたかは定かではない。ただし延文六年(一三六一)四月二〇日に、島津忠政(道春)が当別符内の山田・唐坊とうぼう(現加世田市小湊の当房に比定される)秋目あきめ久志くし(現坊津町)、内浦を子息の公忠に譲っており(「島津道春譲状」早稲田大学蔵下野島津文書)、この系統(下野島津氏)に譲与されたのかもしれない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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