斎藤六郎(読み)サイトウ ロクロウ

20世紀日本人名事典 「斎藤六郎」の解説

斎藤 六郎
サイトウ ロクロウ

昭和・平成期の社会運動家 全国抑留者補償協議会会長;ロシア民族友好大学名誉教授。



生年
大正12(1923)年3月10日

没年
平成7(1995)年12月28日

出身地
山形県鶴岡市

学歴〔年〕
東洋語専卒

主な受賞名〔年〕
ロシア民族友好勲章〔平成5年〕,ロシア民族友好大学名誉博士号〔平成7年〕

経歴
第2次大戦中ハルビン(旧満州)で軍事裁判所書記官。敗戦でソ連軍捕虜となり、昭和20年9月から24年10月までシベリアに抑留される。鶴岡市議を経て、52年から全国抑留者補償協議会会長。63年秋ウラジオストク市近郊の日本人捕虜墓地を訪問。平成2年「シベリア抑留日ソ・シンポジウム」を開催、同年ソ連から抑留者の死亡者リスト1600人分を引き渡された。7年論文「戦時捕虜の研究」などが評価され、モスクワのロシア民族友好大学から名誉博士号が授与された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤六郎」の解説

斎藤六郎 さいとう-ろくろう

1923-1995 昭和後期-平成時代の社会運動家。
大正12年3月10日生まれ。満州(中国東北部)の陸軍第四軍軍法会議書記として終戦をむかえ,シベリアに抑留される。昭和24年帰国。郷里の山形県で自動車販売業をいとなむかたわら,54年全国抑留者補償協議会を結成し,会長。ソ連政府と直接交渉をかさね,抑留死亡者名簿の引き渡し,遺族墓参の自由化,労働証明書の発行などを実現させた。平成7年12月28日死去。72歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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