シベリア(読み)しべりあ(英語表記)Siberia

翻訳|Siberia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シベリア」の意味・わかりやすい解説

シベリア
しべりあ
Siberia

ロシア連邦のアジア部の主要部分を構成する地域。現在、ロシア語ではシビーリСибирь/Sibir'とよんでいるが、これは、西はウラル山脈の東側の麓(ふもと)から東は太平洋斜面と北極海斜面との分水諸山脈までの地域(西シベリア東シベリア)をさし、それ以東の太平洋側は、ロシアでは「ロシア極東」とよんで除外している。しかし歴史的呼称としてのシベリアは太平洋岸までを含み、現在でも欧米や日本では慣習的にそうするので、ここでも極東を含む広義のシベリアを取り扱う。なお、「シベリア」は英語名。広義のシベリアは、人口3118万9000(1999)で、ロシア連邦の21.4%、面積は、その南方境界をロシア連邦の境界に一致させるとすれば、1276万5900平方キロメートルで、ロシア連邦の約75%である。

[三上正利・上野俊彦]

自然

シベリアの西部は広大な西シベリア低地、中部は中央シベリア高原で、南部から北東部にかけてはアルタイ、西と東のサヤン、ヤブロノイ、スタノボイ、ベルホヤンスク、チェルスキー、コリマなどの諸山脈が連なる。カムチャツカ半島の東側山地から千島列島(クリル諸島)にかけては火山帯が走り、多数の活火山がある。世界屈指の大河であるオビ川、エニセイ川、レナ川は北極海方面へ流出し、アムール川は太平洋側へ流出する。気候は大陸的で、とくに冬の寒さは厳しく、気温の年較差は大きい。1月平均気温は西シベリアの南部では零下16℃、サハ共和国の東部では零下48℃となり、ここには北半球の寒極があって、オイミャコンやベルホヤンスクでは気温が零下72℃に下がるときもある。夏は比較的温暖で、7月平均気温は北部で5℃、南部で23℃である。年降水量は北部で100~150ミリメートル、森林帯の西部で550ミリメートル、東部で200ミリメートル、アルタイ山脈で2000ミリメートルになり、一般に雨は夏に降る。冬は乾期で積雪量は平均35センチメートルであるが、永久凍土の地帯が広い。太平洋側は季節風の影響を受けるモンスーン気候で、年降水量は約650ミリメートル。

 シベリアの植生は北から南へ、ツンドラ地帯、森林ツンドラ地帯、森林地帯、森林ステップ地帯、ステップ地帯へと移行し、針葉樹を主とする森林地帯(タイガ)の南北幅は2000キロメートルに達する所もある。森林ステップ地帯の南半からステップ地帯の北半にかけては、肥沃(ひよく)な黒土地帯で農耕適地である。極東の南部には広葉樹の混じる混合林がある。海には魚類や海獣、ツンドラにはトナカイ、森林には各種の毛皮獣がおり、河川には魚が多い。

[三上正利・上野俊彦]

住民

住民の約9割はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人で、都市に多く住み、とくにシベリア鉄道沿線に多い。住民の数%にすぎない先住民はおもに森林地帯やツンドラ地帯に住み、農牧業、トナカイ飼養、狩猟、漁業に従事する。先住民を言語系統で分類すると、ウラル語族のフィン・ウゴル語群にはハンティ人とマンシ人、サモエード語群にはネネツ人、ガナサン人、セルクープ人がある。またアルタイ語族のトルコ語群には、北方にサハ人とドルガン人、南方にハカス人、アルタイ人、ショーレツ人、トゥバ人、タタール人、モンゴル語群にはブリヤート人、ツングース・満州語群には東シベリアおよび極東方面のエベンキ人、エベン人、ネギダル人、ナーナイ人、ウリチ人、オロチ人、ウデゲイ人がある。孤立した特殊なエスキモー・アリュート語族には、エスキモーとアリュート人がある。またシベリア北東部の諸民族を一括して特別の群とする旧アジア諸民族には、チュクチ人、コリヤーク人、イテリメン人、ユカギール人、ニブヒ人がある。そのほかシベリアの南西部にいるドイツ人、カザフ人、極東南部の朝鮮民族、ユダヤ人、各地に散在するチュバシ人とモルドバ人などがいる。

[三上正利・上野俊彦]

資源と産業

シベリアは天然資源に富み、その開発は将来のロシア経済の発展を左右する重要な要因とみられている。シベリアはとくにエネルギー資源の宝庫である。西シベリア低地の石油はサモトゥロルなどを中心に採掘され、採掘量は2億0685万トン(1999、全ロシアの約67.8%)で、ソ連時代を通じて首位にある。また西シベリア北部ではウレンゴイをはじめとして世界的な天然ガスの大埋蔵鉱床が発見され、開発が進められて、すでに大口径ガス管によってモスクワ方面やウラル工業地域へ送られている。ドイツやフランスなどへも送る契約が成立した。サハ共和国の天然ガスは日米との協力で、また樺太(からふと)(サハリン)の大陸棚では日本との協力で、それぞれ開発が進められている。

 シベリアの石炭の採掘量は2億1800万トン(1999、全ロシアの87.2%)で、露天掘りで採掘費が安いことが長所である。おもな炭田は、ロシア第1位のクズバス炭田(クズネツク。1999年の採掘量1億0900万トン)をはじめ、カンスク・アチンスク褐炭田、イルクーツク炭田、ライチヒンスク褐炭田などがあり、南ヤクート炭田の製鉄用コークス炭は日本と協力して開発を進めている。

 多数の大規模な火力発電所が各地に建設されているうえに、なおシベリアには豊富な水力資源がある。とくにアンガラ・エニセイ水系に豊富で、しかも好条件のためもっとも安価な電力が得られる。ここにはサヤン(出力640万キロワット)、クラスノヤルスク(600万キロワット)をはじめ、出力400万キロワット以上のウスチ・イリム、ブラーツク、ボグチャヌイなどの大水力発電所が稼動中である。

 シベリアで唯一の一貫製鉄所は、ノボクズネツクのクズネツク製鉄コンビナートと西シベリア製鉄所の2企業である。そのほか製鋼所がノボシビルスク、クラスノヤルスク、ペトロフスク・ザバイカリスキー、コムソモリスク・ナ・アムーレにある。機械製造工業もノボシビルスク、イルクーツク、クラスノヤルスクなどで発達してきた。シベリアには非鉄金属その他の鉱床が多く、銅、鉛、亜鉛、ニッケル、コバルト、錫(すず)、タングステン、金、霞石(かすみいし)、水銀、ダイヤモンド、石綿、雲母(うんも)、黒鉛、蛍石(ほたるいし)などを産出する。おもな精錬業地としては、ノリリスク(ニッケル、銅)、ブラーツク(アルミニウム)、クラスノヤルスク(同)、ノボクズネツク(同)、シェレホフ(同)、ベロボ(亜鉛)、ダリネゴルスク(旧名テチュヘ、鉛・亜鉛)などがある。また石炭や石油を原料とする化学工業(肥料、アルコール、ゴムなど)は、ケメロボ、ノボクズネツク、オムスク、バルナウル、トムスク、ハバロフスクなどで盛んである。

[三上正利・上野俊彦]

農林漁業

ロシアの森林蓄積量の大部分はシベリアにあり、ブラーツクには大規模な木材コンビナートがある。しかし東シベリア以外ではまだ十分に開発されていないので、シベリアの原木伐採高は全ロシアの37.6%にとどまっている。また極東海域の漁獲高はロシアの首位にあり、全ロシアの50%以上を占める。農耕適地は東シベリアや極東には少ないが、西シベリア南部はロシアの穀倉地域の一つで、おもに春小麦が生産されている。

[三上正利・上野俊彦]

交通・主要都市

シベリアの交通動脈はシベリア鉄道で、それと並行する南シベリア鉄道とはタイシェトで連絡する。ここから太平洋岸に至るバムБАМ/BAM鉄道は1984年に全通し、沿線の森林やウドカン銅鉱山の開発などが期待されている。川も重要な交通路であるが、冬には結氷する。航空運輸は特別な重要性をもつ。ウラジオストクとナホトカの両港はシベリアの太平洋への門戸である。シベリアの主要な都市としては、ノボシビルスク、オムスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、ウラジオストク、ノボクズネツク、バルナウル、ハバロフスク、ケメロボ、トムスクなどがある。

[三上正利・上野俊彦]

歴史

シベリアにおいて、火を使ったもっとも古い人類(ピテカントロプス型)の痕跡(こんせき)と考えられるものが、アルタイ山中からアムール川流域に至るシベリア南部で認められており、ソ連時代の考古学者オクラドニコフは、その時期を50万~30万年前としている。現在もっとも古い遺跡の一つとして有名なのは、バイカル湖に近いマルタ、ブレチの旧石器時代後期に属する遺跡で、ここでは半地下式住居跡が発掘された。シベリア南部の住民は、北部に比べて早く銅器時代に移行し、紀元前3000年代末~前2000年代初めに、アルタイ地方やミヌシンスク地方にアファナシェボ文化とよばれる金石併用文化が存在したことが知られ、この系統の文化は牧畜と農耕の始まりを示すものとされる。

 前3世紀以降、シベリア南部はフン人の支配下に入り、フン人の衰退後は中央アジア諸民族の支配するところとなった。6~8世紀にはアルタイ地方のチュルク系種族によってチュルク・ハン国が、7~10世紀には極東地方から満州(現中国東北地方)、朝鮮北部にツングース系の渤海(ぼっかい)国が建てられたが、13世紀には北辺を除くシベリアの大部分がモンゴル帝国の支配下に入った。その後、シベリア東部はチャガタイ・ハン国、西部はキプチャク・ハン国に属したが、キプチャク・ハン国が解体すると、15世紀中葉~16世紀末にシビル・ハン国が形成された(これがシベリアという語の由来とされる)。

 他方、西シベリア北部は、11世紀からノブゴロド商人にユグラ(ハンティ人と一部マンシ人の居住した北部ウラル地方の古名)の国の名で、毛皮貿易などの相手として知られていたが、13世紀にはノブゴロドの勢力下に入り、15世紀にはノブゴロドを編入したモスクワからの遠征隊の攻勢を受けた。

[藤本和貴夫]

ロシア人の進出

ロシア人によるシベリア進出で大きな役割を果たしたのは、カマ川流域をイワン4世から与えられた大製塩業者で大領主のストロガノフ家である。同家に雇われたイェルマークを長とするコサック部隊は、1581年(あるいは1579年)ウラルを越えてシベリアに入りシベリアの諸民族と衝突、シビル・ハン国滅亡の引き金となった。こうしてシベリアに、1586年チュメニが、87年トボリスクが、ロシア人の最初の拠点として築かれ、17世紀初めには南シベリアの植民地化が完成した。その後、ロシアの進出は北方と東方に向かい、1632年にはレナ川岸に東方進出の策源地となるヤクーツクが建設された。1639年ロシア人はオホーツク海に達している。しかし、東シベリア南部のアムール川中流域から満州方面では、清(しん)朝の反撃を招き、1689年にネルチンスク条約を、1727年にはキャフタ条約を清国と結び、国境問題などを調整した。

 18世紀初め、シベリアのロシア人は30万人以上を数えるに至っている。ロシア政府は、支配の及ぶ現地住民にヤサクと称する税を課した。これは多くの場合、毛皮で納入されたが、ほかに馬の徴発や労役なども課され、圧迫に対する反乱はしばしば起こった。シベリアの統治は、ピョートル1世(大帝)時の1708年にトボリスクを中心とするシベリア県の設置、1764年のイルクーツク県の分離など、いくつかの変遷をたどったが、ロシア人統治者の腐敗は絶えなかった。そのため、1822年にスペランスキーによる改革が行われ、トボリスク(1839年以降オムスク)に西シベリア総督府、イルクーツクに東シベリア総督府(1884年、沿アムール総督府を分離)が置かれるとともに、これを統制する機関をも設けた。これは1917年の革命まで続いている。またシベリア現地住民に対する「異族人統治規程」もこのとき発布された。

[藤本和貴夫]

農・鉱業の発達と流刑

農業は当初、農奴制のヨーロッパ・ロシアを逃れた農民によって行われたが、1861年の農奴解放以後、農民のシベリア移住が急増した。1895年までに、およそ75万人がおもに西シベリアに移住しており、その結果、西シベリアはロシアの新たな穀倉地帯となった。シベリアにおける広大な未開拓地の存在は、農民にヨーロッパ・ロシアに比べて、より大きな自由を与えた。また鉱山業も発達した。18世紀のシベリアには、銀山を主とするアルタイ地方とザバイカル地方の二つの鉱山の中心があり、いずれも皇室領として発展した。19世紀前半になると新たに金鉱山の開発が外国資本を含む私企業によって進められ、シベリアにおけるゴールド・ラッシュをもたらしている。その中心はレナ川やアムール川流域で、全ロシアの金産出量の75~80%を占めた。このようなシベリア経済の発達は、流刑による移住民の増加と深く関係していることも無視できない。すなわち、17世紀後半以降、農業、鉱山の労働力として大量の流刑人が送り込まれ、19世紀のシベリアへの流刑に伴う家族を含めた移住人口は100万人以上といわれる。またシベリアは、デカブリスト、ポーランド独立運動家、ナロードニキ、レーニンを含むマルクス主義者など、革命家や政治犯の流刑地としても有名で、彼らのうちにはシベリア研究に大きな足跡を残した者も多い。

[藤本和貴夫]

極東ロシア領の確保と鉄道

19世紀なかばになると、アヘン戦争を契機に西欧列強の中国進出が決定的となった。ロシアも極東ロシア領の確保のため、アムール川沿岸地方の植民を急速に進め、1858年、清国とアイグン条約(愛琿条約)を結んでアムール川左岸地方を、1860年には北京(ペキン)条約によってウスリー川以東の地方をロシア領に組み込み、不凍港ウラジオストクを得た。1891~1904年のシベリア横断鉄道の完成(この時点では中国領を通る東清鉄道経由)は、ロシアの中心を太平洋と結び付けることになった。またこれは、外国人を含む大量の労働者と資本・資材をシベリアに流入させ、シベリアにおける資本主義の発達をもたらした。

 日露戦争(1904~05)とその敗北は戦争に対する民衆の不満を高め、1905年の革命となったが、この革命は、銃後に直接控えていたシベリアの各都市をも覆った。とくにシベリアでは、「チタ共和国」「クラスノヤルスク共和国」とよばれる、兵士と鉄道労働者を中心とした革命派による一時的な都市支配が生み出されたのが特徴である。労働運動、革命運動も鉄道とともにシベリアに広がったともいえる。

[藤本和貴夫]

革命以後の発展

1917年の十月革命は全シベリアにソビエト政権を成立させ、18年2月にイルクーツクで開かれた全シベリア・ソビエト大会は、全シベリアの政治指導機関としてシベリア・ソビエト中央執行委員会を創設した。しかし同年夏、シベリア鉄道沿線で始まったチェコスロバキア軍団の反乱とこれに続く内戦、干渉戦争のなかで、ソビエト政権は一時消滅し、オムスクにコルチャークの軍事独裁政権が成立。東進した赤軍がイルクーツクに入るのは1920年初めであるが、バイカル湖以東の一部を占領する日本軍との衝突を避けるため、バイカル湖以東に緩衝国として樹立された極東共和国を、ソビエト政府は承認した。同共和国は22年10月、日本軍のウラジオストク撤退後、ロシア・ソビエト共和国と合流して消滅した。また25年の日ソ基本条約の成立により、日本軍は北樺太(からふと)(北サハリン)からも撤退した。

 内戦終結後、シベリアは行政上シベリア地方と極東地方に分けられ、さらに前者は、1930年に東シベリア地方と西シベリア地方に分割された。また革命後は少数民族の自立が認められ、1922年にヤクート自治共和国、23年にブリヤート・モンゴル自治共和国(58年からブリヤート自治共和国)や民族自治州などが創設された。

 シベリアの本格的な開発は1920年代末よりの第一次五か年計画に始まり、当初は西シベリアのクズバス炭田地域に集中した。その後、第二次世界大戦中のシベリアへの工場疎開が、ノボシビルスクを中心とする地域の工業発展を大きく進めた。50年代以降は、大河川に巨大発電所が建設され、その電力を使った工業化が東シベリアや極東地方でも進められている。また科学技術や学術の発展のため、57年にノボシビルスク近郊に科学都市アカデムゴロドクАкадемгородок/Akademgorodokが建設され、ソ連時代は科学研究の最大の中心の一つであった。現在は、ロシア科学アカデミーのシベリア支部が置かれている。

[藤本和貴夫]

『H・タッパー著、鈴木主税訳『大いなる海へ』(1971・フジ出版社)』『ソ連科学アカデミー編、日本対外文化協会訳『大シベリア史3・4』(1973、74・東海大学出版会)』『小川和男著『シベリア開発と日本』(1974・時事通信社)』『N・N・ネクラーソフ著、鈴木啓介訳『シベリア開発構想』(1975・サイマル出版会)』『白井久也著『新しいシベリア』(1976・サイマル出版会)』『エドワード・エバンズ・プリチャード原著総監修、梅棹忠夫日本版総監修『世界の民族14 シベリア・モンゴル』(1979・平凡社)』『ソ連東欧貿易会編・刊『シベリア開発の諸問題』(1980)』『望月喜市編『シベリア開発と北洋漁業』(1982・北海道新聞社)』『アレン・ホワイティング著、池井優監訳『シベリア開発の構図』(1983・日本経済新聞社)』『ゾーヤ・ソコロワ著、本荘よし子訳『北の大地に生きる――シベリア民族誌』(1987・国際文化出版社)』『浅井勇著『シベリア鉄道』(1988・教育社)』『小川和男・小牧輝夫編『環日本海経済圏――北東アジア・シベリア時代の幕開け』(1991・日本経済新聞社)』『毎日新聞社編・刊『極東――シベリアの自然、人、生活』(1993)』『加藤九祚著『シベリアの歴史』(1993・紀伊國屋書店)』『福田俊司著『シベリア大自然』(1995・朝日新聞社)』『阪本秀昭著『帝政末期シベリアの農村共同体――農村自治、労働、祝祭』(1998・ミネルヴァ書房)』『ジェームス・フォーシス著、森本和男訳『シベリア先住民の歴史――ロシアの北方アジア植民地(1581~1990)』(1998・彩流社)』『コリン・サブロン著、鈴木主税ほか訳『シベリアの旅』(2001・共同通信社)』『阿部信行編・著『シベリアの森林 ロシアと日本のアプローチ』(2004・日本林業調査会)』『中京大学社会科学研究所ロシア研究部会編『東シベリアの歴史と文化』(2005・成文堂)』『相田重夫著『シベリア流刑史』(中公新書)』『加藤九祚著『西域・シベリア――タイガと草原の世界』(中公文庫)』『福田正己著『極北シベリア』(岩波新書)』『S. P. SuslovPhysical Geography of Asiatic Russia(1961, W. H. Freeman, San Francisco)』『V. ConollySiberia Today and Tomorrow(1975, Collins, London)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シベリア」の意味・わかりやすい解説

シベリア
Siberia

ロシア語ではシビリ Sibir'。ロシアのウラル山脈以東のアジア部で,東は太平洋岸の分水嶺まで (欧米や日本では通常太平洋岸まで含めて考えられる) ,北は北極海から南はカザフスタンおよびモンゴルとの国境までの広大な地域をさす。東西 7000km以上,南北 3500km,面積約 1000万 km2 (太平洋岸まで含めると約 1300万 km2) 。 16世紀西シベリアにあったシビル・ハン国に,またはチュルク語のシブ (「眠っている」の意) ,イル (「土地」の意) に由来するといわれる。地形的にはウラル山脈東麓からエニセイ川までの低平な西シベリア低地,エニセイ川からレナ川までの中央シベリア台地,レナ川以東および南部の山地に分れる。行政的には西シベリア,東シベリア,極東の3つの経済地域に分けられているが,これらは上記の自然地域区分とはややずれ,西シベリアはオビ川流域,東シベリアはエニセイ川流域とレナ川上流域,極東はレナ川中・下流域以東にほぼ一致する。気候は大陸性で冬季きわめて寒冷で,東北方へ行くほど寒気がきびしくなり,北東部のサハ共和国に北半球の寒極がある。また永久凍土帯が広く分布している。北部と高山地帯を除いて大部分がタイガ地帯に入るが,西シベリア低地南部,東シベリア南部の盆地に森林ステップ地帯とステップ地帯がみられる。シベリアは地下資源に恵まれていることで知られており,石炭,石油,天然ガス,ダイヤモンド,金,鉄,ニッケルなどを埋蔵している。 16世紀後半のロシアのシベリア進出以前はフィン=ウゴル語派に属する言語をもつ諸民族,古アジア諸族などがわずかに住み,牧畜,狩猟に従事していた。ロシア人の入植後農業が行われるようになったが,帝政時代には開発が進まず,流刑地として利用されていた程度で,本格的な開発は 1890年代のシベリア横断鉄道建設以後であった。特に工業開発は遅れ,ロシア革命後の第1次5ヵ年計画以降ようやく石炭,鉄鉱などの採掘,工業都市の成長が始った。 1960年代以降,西シベリアの石油,天然ガスの開発,大規模な水力発電所の建設が進められ,1984年バム鉄道 (第2シベリア鉄道) が完成し,開発が南部から中部へ広がろうとしている。ロシア極東部は水産業と金その他の鉱物資源の採取により,ロシアの国民経済のなかで重要な役割をになっている。

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