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中国の地名、および民族名。ヨーロッパ人はマンチューリアManchuriaとよぶ。明(みん)末、この地方にいたツングース系の女真(じょしん)(女直(じょちょく))人は太祖ヌルハチに統一され、力を増大させていった。ヌルハチは自己の民族名を満州と改名した。これによって、それまで漠然と遼東(りょうとう)とよばれていた同地方もまた満州とよばれるようになった。満州という名の由来についてはいろいろな説があるが、当時この地方に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)信仰が広がっており、「文殊」の転音である満住、満珠に由来するという説がもっとも有力である。
清(しん)代以降、満州とよばれるようになったこの地方は、古来、北方遊牧民族と漢民族の争奪の地であった。まず戦国時代には粛慎(しゅくしん)がいた。漢の武帝が当地方に四郡を置いたあと、高句麗(こうくり)が興り、しばらくこの地の覇者となった。その滅亡後、渤海(ぼっかい)国ができた。次にモンゴル系の契丹(きったん)族が強大化した。その後、女直人が華北まで支配する強大な金(きん)国を建てた。明代、女直人は海西(かいせい)、建州、野人(やじん)の三部に分かれていたが、建州女直のなかからヌルハチが出て女直族を統一、1616年後金(こうきん)国を建てた。それが発展して中国全土を支配する清朝となった。近代に入ると、まずロシアがこの地に侵入してきて、黒竜江以北およびウスリー川以東の地を奪った。遅れて日本の進出が始まり、ついに1931年、軍事侵略を開始し、翌年「満州国」という傀儡(かいらい)政権をつくり、完全植民地として1945年まで支配した。今日、満州の名は廃され、かわって中国東北とよばれるようになった。
[倉橋正直]
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中国東北部を占める遼寧・吉林・黒竜江の東北3省をさす旧称。16世紀末,アルタイ系のツングース族からでたヌルハチがこの地域を統一してマンジュと称し,やがて漢字で満州の文字があてられ,欧米ではマンチュリアとよばれた。清朝は発祥の地としてこの地に将軍をおいて軍政を行わせたが,日露戦争後の1907年東三省として中国本部と同じく総督・巡部制をとった。11年辛亥革命後,総督は都督と名称をかえたが,張作霖(ちょうさくりん)が東三省支配の実権を握った。28年張が爆殺されたのちは子の張学良(がくりょう)が蒋介石(しょうかいせき)の国民政府に服し,熱河省を含めた東北4省は東北政務委員会によって統治された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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