斗南藩(読み)となみはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斗南藩」の意味・わかりやすい解説

斗南藩
となみはん

明治初年、陸奥(むつ)国北郡・三戸(さんのへ)郡(青森県)、二戸(にのへ)郡(岩手県)内において3万石を領有した家門(かもん)小藩。幕末に京都守護職として活躍した会津藩主松平容保(かたもり)は、戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、1868年(明治1)所領を没収されて禁錮(きんこ)(鳥取藩預け)に処せられたが、翌年赦免されて家名再興が許され、嗣子容大(ししかたはる)が北郡・三戸郡二戸郡内において3万石を与えられて立藩した。藩名には「北斗以南皆帝州」の気概が込められていた。藩領は北郡内35か村(9340石余)、三戸郡内26か村(1万7554石余)、二戸郡内9か村(3555石余)で構成されていたが、71年廃藩置県により斗南県を経て弘前(ひろさき)県となり、すぐ青森県と改称。ただし、二戸郡は岩手県に編入された。

[細井 計]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の斗南藩の言及

【会津藩】より

…若松には軍政がしかれた。69年子容大(かたはる)が家名再興を許され,3万石で陸奥国北部に移住,斗南(となみ)藩を称した。【丸井 佳寿子】。…

【青森[県]】より

…東は太平洋,西は日本海に面し,三方を海にかこまれている。
[沿革]
 明治以前は陸奥国に属し,江戸時代は南部氏の盛岡藩,八戸藩,津軽氏の弘前藩,黒石藩があったが,戊辰戦争後,盛岡藩は減封され,その支藩の七戸藩と3万石で入封した斗南(となみ)藩(旧会津藩)が置かれた。1871年廃藩置県をへて,北海道の館(たて)県(旧松前藩)を含め弘前県に合併後,青森県となり,翌年旧館県を開拓使に,76年二戸郡を岩手県に移管し,現在の県域が定まった。…

【むつ[市]】より

…田名部は南部藩時代から下北半島の経済的中心として海産物や木材の取引が行われ,代官所も置かれた。1870年(明治3)には官軍に敗れた会津藩が3万石に減封されて田名部に移され,斗南(となみ)藩と称した。大湊は海軍の根拠地として発展してきた軍港都市で,第2次大戦後は海上自衛隊の基地となっている。…

※「斗南藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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