青森県南西部の市。2006年2月旧弘前市と岩木(いわき)町,相馬(そうま)村が合体して成立した。人口18万3473(2010)。
弘前市北西部の旧町。旧中津軽郡所属。人口1万1982(2005)。旧弘前市の西にあり,岩木山とそのすそ野を占め,東部は津軽平野にかかる。中心の賀田(よした)は津軽藩の祖といわれる大浦光信が1502年(文亀2)大浦城を築いた地で,大浦氏(津軽氏)による津軽平定の拠点であった。沖積平野には水田,岩木山東麓の標高300m以下にはリンゴ園が多く,町の中心産業となっている。岩木山麓一帯では1962年から国営開拓パイロット事業として酪農化がすすめられ,百沢地区には岩木実験農場が置かれたが,経営不振のため8年目には解散した。岩木山南麓には百沢,嶽,湯段などの温泉や岩木山百沢スキー場があり,八合目までは津軽岩木スカイラインが通じ,観光客も多い。百沢には岩木山神社,津軽氏4代信政らを祭る高照神社がある。
弘前市南西部の旧村。旧中津軽郡所属。人口3840(2005)。岩木川の支流相馬川流域を占め,白神山地の堂九郎坊森,長慶森などを境に秋田県と接する。国有林を主とする山林が村域の80%以上を占める山村。水田は相馬川下流や岩木川との合流点近くの中心集落五所周辺にわずかにあるのみで,丘陵部ではリンゴ栽培が行われ,村の基幹産業となっている。1933年に亜鉛鉱を主とする舟打鉱山が操業を始めたが,63年に廃山となった。78年に峰越林道田代・相馬線が開通し,秋田県田代町(現,大館市)と結ばれた。紙漉(かみすき)沢は南朝3代長慶天皇終焉地との伝説をもつ。
執筆者:佐藤 裕治
弘前市東部の旧市で,津軽平野南部の中心地。1889年市制。人口17万3221(2005)。秋田県境に源を発する岩木川が市街地の西部を北流し,支流の土淵川が市街地を貫流している。市街地は洪積台地の末端に築かれた弘前城を中心として台地上に展開し,一部は沖積平野にもおよんでいる。弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が築城してから城下町として発展し,津軽地方の政治・経済・軍事の中心となってきた。明治以後は県庁が青森市に移ったことで一時衰退したが,1894年の青森~弘前間の奥羽本線開通や,96年の陸軍第8師団司令部の設置で活気をとり戻し,第2次大戦終結までは軍都として栄えた。戦災を受けなかったため,被災した青森師範,青森医専が戦後,青森から移転して,旧制弘前高校と統合,国立弘前大学が創立され,文教都市としてよみがえった。JR奥羽本線,国道7号,102号線が通じるほか,弘南鉄道が走り,この地方の交通の要衝となっている。市域一帯は津軽平野南部の穀倉地帯で,日本一のリンゴ産地でもあり,市はその一大集散地となっている。また商業の中心地として広い商圏をもっている。地場産業として,リンゴ加工や酒,みそ,しょうゆなどの食品工業があり,名産の津軽塗をはじめ,津軽焼,津軽こぎん(小衣),アケビづる細工などの伝統工芸も盛んである。春に弘前城跡の公園を中心に催される桜祭と夏に津軽地方一円で行われるねぷた祭(ねぶた)は最大の年中行事として全国に知られる。
執筆者:横山 弘
陸奥国弘前藩の城下町。《信枚君一代之自記》によれば,1628年(寛永5)8月20日から弘前と称したという。それ以前は高岡,鷹ヶ岡,古くは二ッ石と呼んだ。町屋の建設は,1603年(慶長8)に藩祖津軽為信の命によって行われ,移住者には扶持を支給した。城下町の本格的な建設は,10年に2代藩主津軽信枚が弘前城の築城にとりかかったときからで,翌年には城下町の体裁を整えた。46年(正保3)の絵図によれば,城を中心に城北は八幡宮のほか歩行(かち),若党,小人(こびと)などの下級武士と禰宜(ねぎ)が居住し,城東には町屋,寺院,侍屋敷,東照宮などがあった。城南には町屋,足軽屋敷のほか津軽氏の菩提寺長勝寺を中心とする寺院町(長勝寺構),城西は町屋,馬屋,鷹匠町,侍屋敷が岩木川を挟んで配置され,城下の町域は四つに区分されている。岩木川は当時天守の下を流れ,2筋に分かれていた。城内にも三の丸,四の郭に侍屋敷と侍町がおかれた。職人は職種ごとに集住して,鞘師町,鍛冶町,桶屋町,銅屋町,紺屋町などをつくり,現在もそれらの町名は残っている。城下の景観は,藩政時代に幾度も変更を余儀なくされた。1649年(慶安2)の寺町大火によって,城東の寺院町が城南に移転し,その跡に町屋が設けられた。また,74年(延宝2)と82年(天和2)の岩若木川掘替え,元禄(1688-1704)と宝永(1704-11)の2回にわたる城内からの家中屋敷の移転,寛政改革による藩士土着と城下への復帰があった。19世紀初頭以後明治維新に至るまでは,町端に新町つくられたほかは大きな移動はない。
1681年の町人法度によって町方支配の概要は定まり,町奉行,町年寄,町名主,月行事の支配機構も固まった。町役には,地子銀,出人足,時鐘茂合銭,木戸番,伊勢太々神楽料があって,それらの徴収が行われた。このうち屋敷地に賦課された地子銀と出人足は町役の基幹を成すものであるとともに,表裏一体の関係にあった。79年に人足役が定まり,1701年に地子銀納へと変わり,13年(正徳3)には再度人足役へと移って維新に至った。
城下の人口は,1764年(明和1)の藩律によれば,武家は1万4600人余,商家は1万6600人余であった。産業には津軽塗や弘前蠟燭(ろうそく)などがあり,年中行事ではねぷた,盆踊,八幡宮の祭礼が特に盛んであった。
執筆者:長谷川 成一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
青森県南西部、津軽平野南部の中心をなす市。1889年(明治22)市制施行し、県下唯一の市となった。1955年(昭和30)中津軽郡の清水、和徳(わっとく)、豊田(とよだ)、堀越(ほりこし)、千年(ちとせ)、東目屋(ひがしめや)、藤代(ふじしろ)、新和(にいな)、船沢、高杉、裾野(すその)の11村、1957年石川町を編入。2006年(平成18)、中津軽郡岩木町(いわきまち)、相馬村(そうまむら)を合併。JR奥羽本線、弘南鉄道弘南線(こうなんてつどうこうなんせん)・大鰐線(おおわにせん)、国道7号、102号、339号のほか、東北自動車道が通じ大鰐弘前インターチェンジがある。
西部や南部は山地や丘陵地が占めるが、東部、北部は平地が開ける。市街地西方を岩木川が北東流し、その支流の土淵(つちぶち)川が市街地を貫流する。市街地は洪積台地の末端に築かれた弘前城を中心として、台地上に拡大し、一部は沖積平野にも広がっている。1611年(慶長16)津軽信牧(つがるのぶひら)(大浦信牧(おおうらのぶひら))が高岡(弘前の旧名)に築城し、以来弘前藩の城下町として明治に至った。1871年(明治4)弘前県となったが、県庁が青森に移され一時衰退した。1894年青森―弘前間に奥羽線が開通し、1897年には第八師団が設置され、以後軍隊の街、津軽平野南部の中心として発展した。第二次世界大戦後、軍用地は学校用地や住宅地に転用され、戦災にあった青森師範、青森医専を青森市から移転させ、弘前高等学校などと統合、1949年(昭和24)国立弘前大学が開校した。2022年現在、弘前大のほか大学3、短大2がある。
津軽平野南部の農村地帯の中心であり、市況は稲作とリンゴ栽培の豊凶に影響されることが多い。内陸部にあるため近代工業は振るわず、食品、建設材など地元原料に依存する中小工場が多い。津軽塗、津軽焼、こぎん刺しなどの伝統産業がみられる。
弘前城は平山城(ひらやまじろ)で、天守など国の重要文化財に指定されている建造物も多く、津軽氏の城跡として国の史跡に指定されている。約4800アールの城跡は弘前公園として開放され、桜の名所としても知られる。このほか、国指定名勝に明治末期の庭園瑞楽園(ずいらくえん)、国指定重要文化財に最勝院五重塔、長勝寺三門、弘前八幡宮(ひろさきはちまんぐう)本殿・唐門、熊野奥照神社(くまのおくてるじんじゃ)本殿などの寺社建築、商家の石場家住宅、明治建築の旧第五十九銀行本店本館、弘前学院外人宣教師館などがある。弘前城の北の馬喰(ばくろ)町、小人(こびと)町、若党(わかどう)町には武家屋敷が残り、仲町重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。8月1~7日に行われる東北三大祭りの一つ「弘前のねぷた」(国の重要無形民俗文化財)は、夜の街を扇形の大灯籠(とうろう)が練り歩く勇壮なもの。面積524.20平方キロメートル、人口16万8466(2020)。
[横山 弘]
『『弘前市史』全2冊(復刻版・1973・弘前市)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新