朝日日本歴史人物事典 「新納時升」の解説
新納時升
生年:安永7.12(1778)
江戸中・後期の薩摩(鹿児島)藩士。通称は次郎九郎,弥太右衛門,矢田右衛門,号は伯剛,如泉,空翠,乾々道人。新納時意の子として鹿児島城下に生まれる。享和3(1803)年に蔵方目付となり,文化5(1808)年には江戸詰めとなり,在江戸中に尾張藩儒者冢田大峯に学んだ。そののち糾問掛,大島代官などを経て文政2(1819)年には大坂詰めとなって藩債500万両の整理に当たったが,調所広郷の旧債切り捨て案に反対して禁固された。のち復職したが同10年に改革案を島津重豪に直訴しようとして失職。嘉永2(1849)年のお由羅騒動にも連座して徳之島に流された。安政1(1854)年に赦免されたのち,同3年から藩校造士館助教として子弟の教育に励んだ。<参考文献>山田準編『新納時升翁と勉強説及党弊論』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報