日置益(読み)ヒオキ エキ

20世紀日本人名事典 「日置益」の解説

日置 益
ヒオキ エキ

明治・大正期の外交官 駐ドイツ大使。



生年
文久1年11月20日(1861年)

没年
大正15(1926)年10月22日

出生地
伊勢国(三重県)

学歴〔年〕
帝大法科大学(現・東大法学部)法律学科〔明治21年〕卒

経歴
明治24年外交官試補をふり出しに外交官生活に入る。41年特命全権公使としてチリ駐在を命じられ、ペルー、アルゼンチン両国公使を兼任した。大正3年中国公使に転じ、4年対華21カ条要求の交渉を担当。ついでスウェーデン、ノルウェー、デンマーク駐在を経て、9年駐ドイツ特命全権大使となり、12年帰国。14年北京における関税特別会議に全権として出席した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「日置益」の解説

日置益

没年:大正15.10.22(1926)
生年:文久1.11.20(1861.12.21)
明治大正期の外交官。伊勢国(三重県)生まれ。明治21(1888)年帝大法科大学法律学科卒業後外務省試補となる。ロシア,朝鮮,清国,ドイツ,チリ,中華民国,スウェーデン,ドイツと,22年から大正12(1923)年まで各国で外交事務を執り続けた生粋の駐在外交官。中国駐在公使時代に悪名高い対華21カ条要求(1915)の交渉担当者とされたことでよく知られる。交渉の粘り強さには定評があった。14年北京関税特別会議全権となるが翌年病没。

(斎藤聖二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日置益」の解説

日置益 ひおき-えき

1861-1926 明治-大正時代の外交官。
文久元年11月20日生まれ。明治41年チリ公使となり,大正3年中国公使。翌年対華二十一ヵ条要求を提出し交渉にあたる。のちドイツ大使。大正15年10月22日死去。66歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。帝国大学卒。

日置益 ひき-ます

ひおき-えき

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「日置益」の解説

日置 益 (ひおき えき)

生年月日:1861年11月20日
明治時代;大正時代の外交官。北京関税特別会議全権
1926年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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