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日遠 にちおん

美術人名辞典の解説

日遠

江戸前期の日蓮宗の僧。身延山二十二世。京都生。字は尭順、号は心性院、別号一道、姓は石井。6才の時本国寺で日重を仰いで出家。天台教・倶舎唯識戒律等を究め、身延山に上ってのちは、山内に立正会を開き、大いに学事を奨励した。寛永19年(1642)寂、71才。

出典 (株)思文閣美術人名辞典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日遠 にちおん

1572-1642 織豊-江戸時代前期の僧。
元亀(げんき)3年生まれ。日蓮宗。京都本満寺の日重に師事。下総(しもうさ)飯高(千葉県)の檀林化主(だんりんけしゅ)をへて,慶長9年身延山久遠寺22世となる。西谷檀林を創設し,13年日経の慶長法難に関連して退隠。寛永7年不受不施派との対論(身池対論)に勝利し,幕命により池上本門寺貫主となった。寛永19年3月5日死去。71歳。京都出身。俗姓は石井。字(あざな)は尭順。号は心性院。著作に「千代見草」「法華文句随聞記」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

日遠

没年:寛永19.3.5(1642.4.4)
生年:元亀3(1572)
安土桃山後期から江戸前期の日蓮宗の僧。受不施派(他宗からの布施供養を受け入れる)の中心的人物。字は尭順,心性院と号す。京都の連歌師の宗匠石井了玄(日幽)を父,法妙(日貴)を母に出生。6歳で本満寺日重 について出家,南都や東山で修学し,慶長4(1599)年,師日重に推挙されて飯高檀林(学問所)に講ず。同9年,日乾の退隠を受けて身延山久遠寺貫主となりそのころから徳川家康の側室,養珠院お万の方の深い帰依を得た。寛永3(1626)年,養珠院の寄進で身延大野に堂宇が建立され,本遠寺として寺院化していった。当時,隆盛を極めた日奥,日樹らの不受不施義を主張する関東学派に対して,日遠は受不施義の関西学派の頭領として鋭く論陣をはった。寛永7(1630)年の江戸城内での受・不受の宗論では,幕府権力を背景に不受の関東学派を打ち破り,それ以後,不受不施派に代わって日遠が池上本門寺貫主となった。翌年には弟子の日東に池上を譲り,自ら鎌倉経ケ谷に不二庵を建てて隠棲。この庵には,養珠院をはじめ多くの信徒が度々参詣して法話を聞いたという。晩年には,名実ともに宗門を代表する高僧として仰がれ,師日重,兄弟弟子日乾と共に「宗門中興の三師」と評される。寛永19年,池上で遷化,墓所は身延の大野本遠寺。のち養珠院も師の徳行を慕って,遺言して同所に墓所を定めた。3代将軍家光は同寺に封戸若干を寄せて一方の本山とした。<著作>『玄義聞書』『法華経大意』<参考文献>執行海秀『日蓮宗教学史』

(佐々木馨)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典内の日遠の言及

【久遠寺】より

…近世初頭には,関西の六条本国寺門流の日重が貫首に招かれたが,日重は弟子日乾(につけん)を推した。日乾に次いで同門の日遠(にちおん)も貫首に就任,関西門流の東国進出を果たした。いっぽう,このころ起こっていた日蓮教団における受不施(じゆふせ)・不受不施の確執のなかで,日乾・日遠・日暹(につせん)らは受不施を代表して,のちに不受派を地下潜行に追いこんだ。…

※「日遠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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