星鹿村(読み)ほしかむら

日本歴史地名大系 「星鹿村」の解説

星鹿村
ほしかむら

[現在地名]松浦市星鹿町 北久保免きたくぼめん牟田免むためん下田免しもだめんなど

御厨屋みくりや村の北に位置し、海に突き出た星鹿半島を村域とする。古代に防人が置かれたと伝え、中世には元寇など外寇に対する防衛拠点であった。また宇野うの御厨のうちとして牛牧の跡と伝承される地がある。地内に加藤重氏にかかわる刈萱かりかや城跡があり、重氏はのち紀州高野山に登り、修行を続け、石童丸の哀話でも知られる。弘安九年(一二八六)三月日の都甲惟親軍忠状(都甲文書)に「星鹿」とみえ、モンゴル軍がたか(現鷹島町)に襲来したため、惟親らは当地から鷹島に渡っている。同四年閏七月五日、「千崎」の沖、つまり星鹿の沖で海上戦があり、肥前国御家人で黒尾くろお(現佐賀県武雄市)の大宮司藤原資門は千崎ちざき(津崎鼻)で賊船に乗り移って鷹島でも交戦し敵兵を生捕りにしたという(永仁四年八月日「藤原資門申状」武雄神社文書、「竹崎季長絵詞」)。地内のじよう山北面の海岸線に高さ二メートルほどの二段の石塁が三〇〇メートル余にわたって築かれており、モンゴル襲来に備えた石築地と想定される。大堂おおどうの森にモンゴル兵を埋葬したという千人塚が五、六ヵ所あり、付近の畑地から人骨が多数出土したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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