江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号は東河。上総(かずさ)国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射(むさ)郡小堤の神保(じんぼ)家に移り、18歳で下総(しもうさ)国佐原の伊能家へ婿養子に入る。名家ではあったが負債で没落しかけていた酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見(むらかたこうけん)として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、50歳で隠居すると江戸に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を学んだ。当時、正確な暦をつくるうえに必要な緯度1度の里程数が定まっておらず、天文学上の課題になっていた。この解決のために忠敬は長い南北距離の測量を企て、北辺防備の必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地(えぞち)南東沿岸の測量を出願して官許を得た。1800年(寛政12)期待したとおりの成果を収めたが、その後全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次にわたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708キロメートル、方位測定回数15万回という大事業となった。道線法と交会法を併用する伝統的な方法はけっして新しくはないが、細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、根気と努力の勝利といえよう。忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75キロメートル)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。
忠敬は一期測量するごとに地図をつくったが、最終の成果をみずに江戸・八丁堀の自宅で死去した。弟子たちの編集によって『大日本沿海輿地全図(よちぜんず)』が完成されたのは1821年(文政4)である。大図は1町(約109.1メートル)を1分(約3ミリメートル、3万6000分の1)で214枚、中図はその6分の1、21万6000分の1の縮尺で8枚、小図はさらに2分の1、43万2000分の1の縮尺で3枚からできている。これに『沿岸実測録』を添えて幕府に献上された。図法はサンソン図法と一致し、地球を球として扱ったため、東北地方や北海道はやや東へずれている。しかし、これは日本初の科学的実測図であり、当時の西欧の地図と比べても誇るに足る業績といえる。官製の地図とはいっても、忠敬の学問的探究心がその出発で、下からの熱望に支えられた事業だからこそ、この輝かしい成果を得たのである。
この地図は江戸時代には一般に活用されることはなかったが、明治維新後、新政府によって発行された軍事、教育、行政用の地図に基本図として使われ、影響は明治末期にまで及んだ。シーボルトが高橋景保(かげやす)を介して得たこの測量図によって、外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになった。
[石山 洋]
『大谷亮吉編著『伊能忠敬』(1917・岩波書店)』▽『保柳睦美編著『伊能忠敬の科学的業績――日本地図作製の近代化への道』(1974/復刻新装版・1997・古今書院)』
近代的日本地図作成の基礎を築いた人。上総国小関村,現在の千葉県九十九里浜沿岸の村に生まれたが,幼少時のことはよくわからない。1762年(宝暦12)に佐原の伊能家の養子となり,名を忠敬と改めた。酒造,米穀取引などの家業にいそしむ一方,村政にも尽くして名主を命ぜられ,苗字帯刀を許される。早くから暦学を好み,天体観測も行った。95年(寛政7)に家を長男に譲り,江戸へ出て深川黒江町に住み,高橋至時(よしとき)に師事して52歳のときから西洋天文学の本格的な勉学を始めた。至時は寛政改暦のために関西から召された若い学者であったが,至時の立場からは緯度1°の距離の測定,ひいては地球の大きさの確定が当面の課題であった。そこで防衛問題が切迫していた蝦夷測量の重要性を幕府に説き,ここへの旅行に際して南北に長い奥州街道を測量して,緯度1°の距離を確定しようと考え,忠敬とその弟子数名に実施させた。これによって示された忠敬の測量技術は幕府を動かし,ついには日本全国沿海測量にまで発展した。こうして伊能隊(忠敬を中心とし,その弟子および天文方の下役それぞれ数名)の測量は,忠敬が56歳から72歳までの間にわたり,その測量日数は3737日,測量距離は4万km近く,天体観測地点数1203に達した。測量に際しては沿道の諸藩から多数の手伝人が差し出された。測量に用いた測器機は,高橋至時やその同僚の間(はざま)重富が漢籍から示唆を得て苦心を重ね,精密工まで養成して作製したものであったし,この測量によって得た緯度1°の距離28.2里(地球を球として)は,現在からみてもかなり正確なものである。忠敬の業績は〈伊能図〉と呼ばれる地図および《輿地実測録》として編纂された。その墓は遺言によって東京上野の源空寺墓地内の高橋至時の墓と並んでいる。千葉県香取市の旧佐原市の旧宅敷地内には伊能忠敬記念館が建ち,遺書(測量日記28冊を含む)や遺品(観測器などを含む)が重要文化財として蔵され,公開されている。
執筆者:保柳 睦美
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1745.1.11~1818.4.18
江戸後期の測量家・地理学者。字は子斎,通称は三郎右衛門のち勘解由(かげゆ),東河と号した。上総国山辺郡小関村の網元の家に生まれる。幼時に母を亡くし,婿養子の父は実家に戻って再婚,そこにも落ち着けず,17歳で佐原(現,千葉県佐原市)の伊能家の婿となる。伊能家の繁栄に尽くし,50歳で隠居。江戸深川黒江町に転居し,幕府天文方高橋至時(よしとき)に師事して天文学を修める。緯度1度の里数確定を期し,師の助力で幕府の許可を得て,1800年(寛政12)奥州道中と蝦夷地東南沿岸を測量。その年中に略図を呈上した。期待にこたえる測地成績・地図作成で幕府の評価は高く,以後14年(文化11)まで沿岸中心に全国を測量した。後半生をかけた実測にもとづく日本全図「大日本沿海輿地(よち)全図」の作図中死去。完成は孫忠晦(ただのり)らによる。
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…伊能忠敬を中心とする伊能(測量)隊が,1800‐16年(寛政12‐文化13)に,幕府の事業として日本全国を測量して作成した日本で最初の近代科学的地図。忠敬は測量成果の集大成の途中,全国図完成前に死去したが,彼の死後は高橋景保の監督下で作成され,1821年(文政4)に完成した。…
…青木昆陽のカンショ栽培試作地や高村光太郎の詩碑,竹久夢二の歌碑がある。小関は伊能忠敬の出身地。【千葉 立也】。…
…中期に入り蘭学の発達が理学,医学等に及んだが,測量の分野でも特記すべき進歩があった。それは伊能忠敬による日本全国の海岸線に沿った測量,地図作成である。忠敬は1800年(寛政12),56歳の老軀にもかかわらず蝦夷(えぞ)地の測量にまず着手して以後,実に18年の星霜を経て日本国土の実体を明らかにした。…
※「伊能忠敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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