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伊能忠敬 いのうただたか

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊能忠敬
いのうただたか

[生]延享2(1745).1.11. 上総
[没]文政1(1818).4.13. 江戸
江戸時代,日本地図を作成した測量家。傾いた養家の家運を回復して名主となったが,晩年,数学,暦学に関心をもち,49歳で隠居してから,江戸の天文学者高橋至時 (よしとき) の門下生となった。

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デジタル大辞泉の解説

いのう‐ただたか【伊能忠敬】

[1745~1818]江戸中期の地理学者・測量家。上総(かずさ)の人。高橋至時(たかはしよしとき)に天文暦学を学ぶ。蝦夷(えぞ)、のちに全国の実地測量を行い、日本最初の実測地図を作製。著「大日本沿海輿地全図」「輿地実測録」など。

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百科事典マイペディアの解説

伊能忠敬【いのうただたか】

江戸後期の測量家・地理学者。通称三郎右衛門,のち勘解由(かげゆ),号東河。上総(かずさ)国に生まれ,18歳のとき下総(しもうさ)佐原の伊能家の養子となり,酒造,米穀取引などに努めて家運を盛り返し,また名主として勤めた。
→関連項目佐原[市]高橋景保間宮林蔵

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊能忠敬 いのう-ただたか

1745-1818 江戸時代中期-後期の測量家。
延享2年1月11日生まれ。養家の下総(しもうさ)佐原(さわら)(千葉県)の酒造業を再興,米穀取引などで家産をきずき,名主となり名字(みょうじ)帯刀をゆるされる。51歳で隠居して江戸に出,高橋至時(よしとき)に天文学をまなぶ。寛政12年自費で蝦夷地(えぞち)東南沿岸を測量して地図を幕府に献上。以後,幕府の支援をえて文化13年全国の測量を終了した。この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)を作成中,文化15年4月18日死去。74歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。本姓は神保。字(あざな)は子斉。通称は三郎右衛門,勘解由(かげゆ)。号は東河。
【格言など】宜(よろ)しく先生の墓側に葬り,以て謝恩の意を表すべし(遺言)

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江戸・東京人物辞典の解説

伊能忠敬

1745〜1818(延享2年〜文政元年)【地理学者】50歳から始めた学問で、「大日本沿海輿地全図」の偉業を達成。 江戸後期の地理学者。上総国出身。18歳のとき、伊能家の婿養子となり、1794年50歳で隠居。翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事した。1800年、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任される。その後1816年まで日本全国の測量を行った。死後完成した『大日本沿海輿地全図』は、シーボルトにより、その精密さを海外にも伝えられた。

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世界大百科事典 第2版の解説

いのうただたか【伊能忠敬】

1745‐1818(延享2‐文政1)
近代的日本地図作成の基礎を築いた人。上総国小関村,現在の千葉県九十九里浜沿岸の村に生まれたが,幼少時のことはよくわからない。1762年(宝暦12)に佐原の伊能家の養子となり,名を忠敬と改めた。酒造,米穀取引などの家業にいそしむ一方,村政にも尽くして名主を命ぜられ,苗字帯刀を許される。早くから暦学を好み,天体観測も行った。95年(寛政7)に家を長男に譲り,江戸へ出て深川黒江町に住み,高橋至時(よしとき)に師事して52歳のときから西洋天文学の本格的な勉学を始めた。

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大辞林 第三版の解説

いのうただたか【伊能忠敬】

1745~1818) 江戸後期の測量家・地理学者。上総かずさの人。下総しもうさ佐原の名家伊能家に入婿。高橋至時に西洋暦法・測量技術を学び、幕命で蝦夷地をはじめ、全国の沿岸測量に従事。日本最初の実測図「大日本沿海輿地全図」を完成。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊能忠敬
いのうただたか
(1745―1818)

江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号は東河。上総(かずさ)国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射(むさ)郡小堤の神保(じんぼ)家に移り、18歳で下総(しもうさ)国佐原の伊能家へ婿養子に入る。名家ではあったが負債で没落しかけていた酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見(むらかたこうけん)として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、50歳で隠居すると江戸に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を学んだ。当時、正確な暦をつくるうえに必要な緯度1度の里程数が定まっておらず、天文学上の課題になっていた。この解決のために忠敬は長い南北距離の測量を企て、北辺防備の必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地(えぞち)南東沿岸の測量を出願して官許を得た。1800年(寛政12)期待したとおりの成果を収めたが、その後全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次にわたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708キロメートル、方位測定回数15万回という大事業となった。道線法と交会法を併用する伝統的な方法はけっして新しくはないが、細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、根気と努力の勝利といえよう。忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75キロメートル)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。
 忠敬は一期測量するごとに地図をつくったが、最終の成果をみずに江戸・八丁堀の自宅で死去した。弟子たちの編集によって『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成されたのは1821年(文政4)である。大図は1町(約109.1メートル)を1分(約3ミリメートル、3万6000分の1)で214枚、中図はその6分の1、21万6000分の1の縮尺で8枚、小図はさらに2分の1、43万2000分の1の縮尺で3枚からできている。これに『沿岸実測録』を添えて幕府に献上された。図法はサンソン図法と一致し、地球を球として扱ったため、東北地方や北海道はやや東へずれている。しかし、これは日本初の科学的実測図であり、当時の西欧の地図と比べても誇るに足る業績といえる。官製の地図とはいっても、忠敬の学問的探究心がその出発で、下からの熱望に支えられた事業だからこそ、この輝かしい成果を得たのである。
 この地図は江戸時代には一般に活用されることはなかったが、明治維新後、新政府によって発行された軍事、教育、行政用の地図に基本図として使われ、影響は明治末期にまで及んだ。シーボルトが高橋景保(かげやす)を介して得たこの測量図によって、外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになった。[石山 洋]
『大谷亮吉編著『伊能忠敬』(1917・岩波書店) ▽保柳睦美編著『伊能忠敬の科学的業績――日本地図作製の近代化への道』(1974/復刻新装版・1997・古今書院)』

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世界大百科事典内の伊能忠敬の言及

【伊能図】より

伊能忠敬を中心とする伊能(測量)隊が,1800‐16年(寛政12‐文化13)に,幕府の事業として日本全国を測量して作成した日本で最初の近代科学的地図。忠敬は測量成果の集大成の途中,全国図完成前に死去したが,彼の死後は高橋景保の監督下で作成され,1821年(文政4)に完成した。…

【九十九里[町]】より

…青木昆陽のカンショ栽培試作地や高村光太郎の詩碑,竹久夢二の歌碑がある。小関は伊能忠敬の出身地。【千葉 立也】。…

【測量】より

…中期に入り蘭学の発達が理学,医学等に及んだが,測量の分野でも特記すべき進歩があった。それは伊能忠敬による日本全国の海岸線に沿った測量,地図作成である。忠敬は1800年(寛政12),56歳の老軀にもかかわらず蝦夷(えぞ)地の測量にまず着手して以後,実に18年の星霜を経て日本国土の実体を明らかにした。…

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