神宮寺(読み)ジングウジ

デジタル大辞泉 「神宮寺」の意味・読み・例文・類語

じんぐう‐じ【神宮寺】

神社に付属して建てられた寺。神仏習合の結果生じたもので、社僧(別当)が、神前読経など神社の祭祀さいしを仏式で行った。明治の神仏分離令で分立または廃絶。神供寺。宮寺。別当寺。神護寺。

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精選版 日本国語大辞典 「神宮寺」の意味・読み・例文・類語

じんぐう‐じ【神宮寺】

  1. 〘 名詞 〙 神社に付属して置かれた寺院。境内または遠隔地に建立した。神仏習合説や神仏混淆(こんこう)思想のあらわれである。明治元年一八六八)の神仏分離令によってほとんどが廃絶、あるいは独立した。宮寺。神宮院。神願寺。神護寺。
    1. [初出の実例]「伊勢月読神為祟。〈略〉又徙度会郡神宮寺於飯高郡度瀬山房」(出典:続日本紀‐宝亀三年(772)八月甲寅)

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日本歴史地名大系 「神宮寺」の解説

神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]小浜市神宮寺

長尾ながお山の山裾にあり、天台宗で霊応山と号し、本尊薬師如来。近世までは若狭鎮守一二宮(若狭彦神社・若狭姫神社)の神宮寺であった。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔神願寺〕

天文一五年(一五四六)成立の神宮寺縁起(越前若狭古文書選)は「当山旧記曰、若狭国遠敷郡霊応山根本神宮寺者、元正天皇為勅願、和銅七年甲寅、沙門滑元草創也」と記し、もとは神願じんがん寺と称したが、若狭彦わかさひこ若狭姫わかさひめ二神が垂迹した際、当寺が「最初宮居寺」であったため、若狭彦・若狭姫両神社の奥院と号され、のち神宮寺と改めたという。しかし神願寺については「類聚国史」天長六年(八二九)三月一六日条に次のような縁起もある。

<資料は省略されています>

神仏習合の具体的な現れとして、奈良時代から神宮寺建立が始まるが、当寺は越前敦賀つるが気比けひ神宮寺と並んで早期の例とされる。

〔寺観・寺領〕

かつては二五坊を数えたと伝え、杉本坊すぎもとぼう不動坊ふどうぼう赤井坊あかいぼうなど坊跡をうかがわせる小字が残る。建長元年(一二四九)八月日の藤原光範寺領寄進状(神宮寺文書)に「神宮寺四至領」として「東限高岸 西限松尾鼻并鳥坂峰 南限太谷南尾 北限率都波岸」とあり、現在確認できるのは西限のみであるが、境域内では殺生が停止されている。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]日南町宮内

崩御ほうぎよ山南麓の西楽々福にしささふく神社西隣に位置し、かつては同社と東楽々福神社の別当寺を勤めた。金光山不動院と号し真言宗御室派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、和銅二年(七〇九)行基が崩御山守護のため創建、元明天皇より寺田二〇〇町歩を与えられたという。「伯耆志」では豪族進氏の援助を得た行基が建立、初め大日山金剛院清浄坊と称し、一二坊を数えたという。寺伝に従えば、当寺五代の良観が弘仁一二年(八二一)に西楽々福社を、仁和二年(八八六)に東楽々福社を勧請。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]津市納所町

納所のうそ集落の中央にあり、真言宗御室派。山号は御供山、本尊は十一面観音立像で、左に天照大神の化身という雨宝童子立像、右には、頭上に竜を戴く男神像で、春日明神といい伝える像を祀り、神仏習合の姿を残す。脇侍から推して、安濃あのう郡神田の水利と勧農を祈る堂であったと考えられる。

寺伝に検地用の竿・縄および枡を石櫃に納めて土中に埋め、その上に堂を建てたという。「勢陽雑記」によれば、中世よりこの寺に所属する伊勢神宮の神田が当村を含む一一村に四八段(「五鈴遺響」には四八所)あり、慶長一四年(一六〇九)には藩主藤堂高虎から、観音寺かんのんじ村など五村で二三・九六石の増進もあって、合計九八・二六九石となった。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]尾上町猿賀 石林

集落西北の石林いしばやし猿賀さるか神社の参道にあり、猿賀山と称し、天台宗。本尊釈迦如来。

猿賀山長命院神宮寺縁起及宝物調(市立弘前図書館蔵)によると、延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が上毛野君田道の霊を祀った深沙しんしや(現猿賀神社)の別当寺で、阿闍羅あじやら千坊の一寺院であったのではないかとする。猿賀神社はかがみガ池に島弁天(胸肩神社)日吉ひよし神社を祀る天台寺院の一典型を示し、天台密教が東北地方に入ってきた中世に、別当としての神宮寺が創立されたと考えられる。天正年間(一五七三―九二)には猿賀・高木たかき新山にやまに五千石を領していたが、天正一五年大浦(津軽)為信が破壊し、真言宗の最勝さいしよう(現弘前市)に別当を兼帯させた(津軽一統志)


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]十日町市四日町

四日町よつかまち集落の南西にある。天福山と号し曹洞宗。本尊の木造十一面千手観音を安置する観音堂が西隣にあり、大同二年(八〇七)の創立と伝え、坂上田村麻呂が三五〇貫文の地を寄進したとの伝承がある。もと天台宗。本尊は行基作と伝えるが一二世紀頃の製作とみられ、像高一四四・五センチ、桜材一木造。脇侍として木造広目天像と木造毘沙門天像がある。いずれも像高一〇二センチ。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]日高村下分 暮月

小村おむら神社の南、通称暮月くれづきにある。修験宗で小村山と号し、本尊は阿弥陀如来。小村神社別当であった神宮寺とは別寺であるが、別当神宮寺が支配していた渡地蔵とよばれる木造地蔵菩薩半跏像(総高三二・二センチ)が当寺に安置されている。鎌倉期の作と考えられるが、この地蔵像について「土佐州郡志」に「所謂渡地蔵者、守僧一人繋仏龕於背後而巡行、止宿于久坂・九頭・入沢・岩目地等村中家々矣、俗伝昔猟人獲鹿仏堂中煮而食之、仏像忽飛出去、是其仏也」とみえ、明治前期頃まで、日下くさか岩目地いわめじ入沢いりさわ九頭くずの各村の家々で輪番で祀っていた(日下村誌)


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]勢和村丹生

丹生にゆうの入口にあり、景勝の地である。丹生山成就院と号し、本尊十一面観音。自作という弘法大師像も安置される。真言宗山階派。女人高野・丹生大師として知られる。「丹洞夜話」によれば、空海の師勤操により宝亀五年(七七四)開かれ、弘仁六年(八一五)空海が伽藍を整えたという。天正一二年(一五八四)三瀬左京の乱で当寺を含め在家ことごとくが焼けたが、弘法大師木像は火中より大師堂住持覚源が救い出したという。現在の建造物は貞享年間(一六八四―八八)のものである。参詣道が各地から通ずるが、松坂からは大河内おかわち(現松阪市)で和歌山街道と分れ、根木ねき峠を越えて広瀬ひろせ(現松阪市)から津留つるの渡(現多気町)を渡り、初瀬はせ本街道と交差しながら丹生へ入る道筋であった。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]口和町向泉 日南

宮内みやうち川の北西山麓にある。霊松山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。応永年間(一三九四―一四二八)黒岩山くろいわやま城主泉三郎左衛門久勝の開基で、僧乗雲を開山とし嶺松れいしよう庵と称して真言宗に属したという。その後衰退していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)甲奴こうぬ稲草いなくさ(現総領町)龍興りようこう寺の僧玄舟が中興し、寛永二年(一六二五)曹洞宗に改め、霊松山神宮寺と称した。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]国東町横手

大嶽おおたけ集落より西に向かう大嶽山麓にある。天台宗。大嶽山と号し、史料上では大嶽寺などとみえる。本尊は不動明王。養老二年(七一八)仁聞の開基という六郷山寺院のうち末山一〇ヵ寺の一つで、安貞二年(一二二八)五月には将軍家祈祷のための諸勤行・諸堂役祭が注進され(「六郷山諸勤行并諸堂役祭等目録写」長安寺文書)、これには中山分のうちに大嶽寺社とみえ、本尊薬師如来で、祈祷を含め年間行事が記されている。文永・弘安の役では当山(末山分のうちに大嶽寺とある)を含む六郷山諸寺院で異国調伏などのための各種祈祷が行われている(弘安七年九月日「六郷山異国降伏祈祷巻数目録写」長安寺文書など)。寺号の初見は室町時代とされる六郷山定額院主目録(太宰管内志)で、大嶽山神宮寺とあり、一六世紀半ばの成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)では流通分末山として記される。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]古河市横山町一丁目

「カネノテ」の通り(近世の二丁目)に面して所在。真竜山心城しんじよう院と号し、真言宗豊山派。本尊不動明王。縁起によれば宝徳元年(一四四九)鎌倉で開創され、本尊は十一面観音であった。鎌倉公方足利成氏の帰依を受けた良宥によって開かれたが、成氏が古河に移るに従って良宥も十一面観音を奉じて文安三年(一四四六)に古河に来て当寺を開いたという。しかし、成氏の古河入城は康正元年(一四五五)で、矛盾している。

本尊十一面観音はすずめ神社の本地仏となり、当寺はその別当寺であったことから、神宮寺の名が付けられたのであろう。十一面観音は坐像で、高さ四七センチばかり、玉眼・寄木造。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]桜川村神宮寺

台地上にある。補陀落山蓮華院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、大同元年(八〇六)に満願の開基。宝徳四年(一四五二)三月一九日注記の檀那門跡相承資并恵心流相承次第(逢善寺文書)に「神宮寺院主門徒相調、門徒ヘ御帰候、軈テ安穏寺ヘ住アツテ、一回ノ内ニ尊栄遷化シテ、不記之、再住アル也」とある。「寛文朱印留」には神宮寺領として、

<資料は省略されています>

とあり、神宮寺村内に九三石余の朱印地を有した(各村旧高簿)


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]鈴鹿市稲生町 高林

伊奈冨いのう神社参道の北側にあり、山号福万山、高野山真言宗。本尊薬師如来。寺伝によれば僧行基の開基といい、伊奈冨神社の神宮寺として僧侶は神社の別当職を兼ねた。承安四年(一一七四)から翌年にかけて、連円善恵房によって同社西宮に奉納された大般若経が当寺に蔵されていた。当寺は慈心じしん院ともいい、後柏原天皇の永正一二年(一五一五)住職に春照上人の号を授けられ、勅願寺の綸旨を賜ったことが次の文書でわかる。「慈心院事、為 勅願寺可奉祈 宝祚延長者、依天気執達如件 永正十二年十一月十一日左中弁伊長 春照上人御房」「当院 勅願寺事、云 叡慮、云上意、無寄所御故障候間、被得上人号、然者参内可被申候事珍重候(中略)十一月十九日 三条実香(花押) 慈心院御房」(神宮寺文書)


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]野田川町字石川 神宮寺

山号は石川山、高野山真言宗。本尊聖観世音菩薩。寺伝では慈観じかん寺の後身という。慈観寺は丹後国田数帳の与謝郡石河庄のうちに、「一町卅六歩 慈観寺御免」とある。慈観寺跡と伝える小字実観じつかん(貫)は、石川村東方にあって神宮寺の所在地とは一キロ以上離れている。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]西城町中野 宮ノ段

みやだん山にあり、青蓮山観音院と号し、真言宗御室派。本尊は十一面観音(もとは聖観音)

寺伝によれば、天正一四年(一五八六)大富山おおとみやま城主宮景盛が創建し、石見国から僧宥意を招き開山としたという。当初、中野なかの八幡神社の西隣にあり、その別当寺であったが、同一九年宮広尚が出雲国(一説では伯耆国)へ移されるとともに当寺も衰微した。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]富山市堀川町

富山地方鉄道上滝線朝菜町あさなまち駅の西方にある。日養山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来。上掛尾かみかけお小刀尾こだちお(現堀川神社)の別当寺で、寛政一〇年(一七九八)の過去帳によれば、桓武・清和・一条各天皇の勅願所という。かつて小刀尾社の神体であった不動明王像の厨子裏書に「小刀尾大権現、御厨子、別当日養山神宮寺現住」、寺蔵の寛文七年(一六六七)の郡奉行書状に「貴寺鎮守小刀尾権現」とある。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]協和町桑山

真言宗豊山派、恵日山真蓮院と号し、本尊は子の権現。神宮寺略縁起(神宮寺文書)によると、建仁元年(一二〇一)山城国醍醐寺座主光宝が桑山くわやま花見はなみおかに堂宇を建立し、醍醐山より下された子の権現を本尊とし、将軍山真蓮院と号したことに始まる。天正元年(一五七三)覚雄が再興したが、同八年火災により焼失、同九年現在地に堂宇を再建し、恵日山真蓮院神宮寺と改称した。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]宜野湾市普天間一丁目

普天間ふてんま宮の西隣にある。普天満山と号し、東寺真言宗。本尊は聖観音。「琉球国由来記」には開基は不明とあるが、「琉球神道記」に普天間権現神宮寺とみえるので、島津氏の琉球侵攻以前、一六世紀末までには創建されていたことがわかる。同書は無銘の梵鐘があったことを記すが、現存しない。「球陽」尚貞王二一年(一六八九)条によれば、当寺の知行高は二五石、うち一三石は寺の修理費に充てられていたが、同年他の寺とともに修理費分の知行を返還し、以後王府によって修復が行われたとある。明治時代の役地高は一二石で、物成は三石余、住持は紫袈裟、品位は従二品であった。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]松本市浅間温泉

浅間あさま温泉の西側茶臼ちやうす山丘陵と浅間温泉御殿ごてん山の間のほらにある。東北方に御射みさい神社春宮がある。

神宮寺は鎌倉時代の記録では浅間宮の別当の寺で、もと真言宗。近世中興後、臨済宗となり、松本城下恵光えこう院の末寺であった。山号を医王山という。本尊薬師如来は藤原時代の作。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]神山町神領 西上角

上一宮大粟かみいちのみやおおあわ神社に隣接する。大粟山成就院と号し、高野山真言宗。本尊文殊菩薩。寺名は上一宮大粟神社の神宮寺であったことに由来する。阿野勧善あのかんぜん寺蔵の大般若経のうち巻六五・巻七〇・巻八八の奥書に嘉慶二年(一三八八)付で、巻四八四の奥書には翌三年付で「大粟山神宮寺」、巻六八の奥書には同二年付で「大粟宮山神宮寺」とみえる。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]宇和島市笹町一丁目

ささ町の神田じんでん川沿いにある寺。現在は小堂が残るのみの小寺となっている。雲竜山と号し、天台宗。本尊青面金剛庚申。

「宇和旧記」には、前向山神宮寺の開基は奥州仙台の生れの行運で、現福島県伊達だて川俣かわまた町を領していた宇和島藩家老桜田玄蕃元親がその祈願所として建立し、二〇石の寺領を寄進したとある。川俣町の伝説では、玄蕃が伊達秀宗の家老につけられた時、同町にあった神宮寺をとりこわし、宇和島に船で運んで移築したという。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]宮津市字中津

中津なかつの集落中央部、海岸べりに海に向かって建つ。中津山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。文明八年(一四七六)中津山城主堀江伊予守の創立と伝える(与謝郡誌)

堀江氏は中世末の丹後国御檀家帳の「くんたの小田」(現字小田宿野)の城主堀江氏と同じ家系とみられる。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]奈良市須川町

須川すがわ町集落の南方、丘陵上に位置。天竜山と号し、真言宗御室派。本尊薬師如来。明治七年(一八七四)須川村の丸尾寺・薬師寺・妙蓮寺・羽林寺・神宮寺を廃し、羽林寺跡の現在地に統合して神宮寺となる。廃寺となった神宮寺は近くの戸隠とがくし神社の横にあった。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]豊橋市大手町

天台宗、白雲山寿命院と号す。吉田三ヵ寺の一。もと長禅寺という禅寺の廃退した跡に師崎もろざき(現知多郡南知多町)羽豆はず神社別当職神宮寺(神護寺)の重信が、慶長元年(一五九六)天海を頼って再興改宗した。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]八尾市恩智中町五丁目

恩智おんぢ神社の南隣にある。高野山真言宗、山号天川山、本尊不動明王。近世末まで恩智神社の神宮寺であったが(神宮寺感応院と号した)、明治初期の神仏分離で独立、一時期寺号として感応かんのう院を名乗った。現在も地元では感応院とよぶ。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]丹後町是安 神宮

是安こりやす城跡の近くにある。山号日照山、高野山真言宗、本尊無憂寂宝如来は用明天皇第三皇子麻呂子親王作の七仏薬師の一と伝える。

創建年代は不詳。寺伝によれば正暦三年(九九二)八月看性阿遮利美再興、天明五年(一七八五)二月再建という。


神宮寺
じんぐうじ

[現在地名]昭和区御器所四丁目

御器所ごきそ八幡宮に接してあり、医王山と号し、真言宗豊山派。本尊薬師如来。江戸時代には、八幡宮の鳥居の外にあり、同宮の宮寺であった。寺伝によれば、紀州高野山蓮華谷誓願院に属し、嘉吉元年(一四四一)八幡宮の勧請者佐久間美作守の創建になり、慶長五年(一六〇〇)大島雲八郎により再興されたと伝える(徇行記)

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改訂新版 世界大百科事典 「神宮寺」の意味・わかりやすい解説

神宮寺 (じんぐうじ)

神祇に仏教的宗儀をささげるために建立された寺院。神宮院,神願寺,神護寺,神供寺あるいはたんに宮寺ともいう。多くは神社の境域内に建てられたが,なかには遠隔の地に設けられたものもある。社僧(宮僧(くそう),供僧(ぐそう),神僧とも呼ぶ)が住み,仏事をもって神に奉仕した。神宮寺は,日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が融合ないし混交した文化現象である神仏習合の思想にもとづいて出現した。文献上の初見は,《藤氏家伝(とうしかでん)》に藤原武智麻呂(むちまろ)が715年(霊亀1)越前の気比(けひ)神の託宣をうけて建てたという気比神宮寺であろう。つづいて養老年間(717-724)に和宅継(やまとのやかつぐ)が若狭の若狭比古(わかさひこ)神のために建てたという神願寺,763年(天平宝字7)に満願(まんがん)禅師が建てた伊勢の多度神宮寺(法雲寺),また同じ満願が天平勝宝年間(749-757)に建てたという常陸の鹿島神宮寺がある。時代の下降とともに神宮寺は増え,おおむね諸国の神社に設けられた。神も衆生(しゆじよう)の一つで,仏法を聞くをよろこび,仏教に帰依して業苦(ごうく)からの救済を願いのぞむという思想に始まり,やがて神の威力を仏法によって増益させることを意図し,さらには神と仏は相互に助け合うといった考えなどが,神宮寺建立の基底にある。上記のほか,山城の賀茂神宮寺,石清水(いわしみず)八幡宮護国寺,大和の石上(いそのかみ)神宮寺,摂津の住吉神宮寺,伊勢の伊勢大神宮寺,能登の気多(けた)大神宮寺,豊前の宇佐八幡神宮寺(弥勒寺)などが有名である。しかし,明治維新の神仏分離で,ほとんどが破壊された。
神仏習合 →神仏分離
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神宮寺」の意味・わかりやすい解説

神宮寺(福井県)
じんぐうじ

福井県小浜(おばま)市神宮寺町にある天台宗の寺。霊応(れいおう)山(鈴応山)神願院(しんがんいん)と号する。本尊は薬師瑠璃光如来(るりこうにょらい)・千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)。寺伝によると、714年(和銅7)滑元(こつがん)(和朝臣赤麿)が霊山を崇拝中に奇瑞(きずい)を得、その麓(ふもと)に寺を建て神願寺と称し、翌年、若狭彦姫神(わかさひこのひめがみ)を迎え神仏両道の寺としたと伝える。鎌倉初期、若狭彦神社を造営して別当寺となり、神宮寺と改称、盛時は七堂伽藍(がらん)25坊を有したという。当寺は奈良東大寺修二会(しゅにえ)(御水取)の「お水送りの寺」として知られる。二月堂下の若狭井の水源は根来(ねごり)川の鵜之瀬(うのせ)であるとされ、3月2日には送水(そうずい)神事が行われる。下根来八幡(はちまん)社で山八(やまはち)神事を行い、ついで神宮寺で修験者(しゅげんじゃ)の修二会、達陀(だったん)(内護摩(ないごま))行法、鵜之瀬で送水文を読み、水切り神事を行って香水を流す。1553年(天文22)建立の本堂、鎌倉末期の仁王門、木造男神・女神坐像(ざぞう)は国重要文化財

[田村晃祐]



神宮寺(宮寺)
じんぐうじ

神社に所属してその境域の内外に建てられた寺。宮寺(みやでら)、別当寺(べっとうじ)、神供(じんぐ)寺、神護(じんご)寺、神願(しんがん)寺ともいう。奈良時代に神仏習合の考えがおこり、神は仏法を喜ぶとされるところから神前読経(どきょう)などの仏事の必要が意識され、建立されるようになった。そのためこの種の寺は神社に祀(まつ)られている神を擁護する守護神的な役割を果たしたが、そこに参勤する社僧もやがて社務にかかわり、神官の上にたって権力を振るうようになった。古く奈良時代に大分県の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)、三重県の伊勢(いせ)神宮、多度(たど)大社、福井県の気比(けひ)神宮の社域に神宮寺が建てられたが、平安中期以降に本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が盛んになると、この傾向はますます助長され、中世から近世にかけて別当寺の建立が一般的になった。それは、神の世界(神社)と仏の世界(寺)に対して神仏並存の世界を象徴する聖域であった。しかし、これらは明治の神仏分離令で廃止されるか、あるいは分離させられて独立の寺となった。なお、近江(おうみ)(滋賀県)日吉(ひえ)神社(日吉(ひよし)大社)や紀州(和歌山県)丹生(にう)神社などの例は、それぞれ延暦寺(えんりゃくじ)と金剛峯寺(こんごうぶじ)の鎮護のために祀られた神社であって、神宮寺ではないことに注意すべきである。

山折哲雄


神宮寺(秋田県)
じんぐうじ

秋田県中央部、大仙市(だいせんし)の一地区。旧神宮寺町は1955年(昭和30)北楢岡(ならおか)村と合併して神岡町となり、さらに2005年(平成17)大曲(おおまがり)市などと合併して大仙市となった。雄物川(おものがわ)と玉川の合流地域にあり、江戸時代には羽州街道の宿場、また雄物川水運の中揚げ港であった。JR奥羽本線の神宮寺駅があり、国道13号が通じる。

[編集部]

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百科事典マイペディア 「神宮寺」の意味・わかりやすい解説

神宮寺【じんぐうじ】

神願寺,別当寺,神供(じんく)寺,宮寺とも。神社の祭神のために仏事を修して解脱(げだつ)を得させるための寺院。神仏習合思想に基づくというが,起源は不明。後ほとんどの神社におかれた。奈良時代の気比(けひ)神宮寺が文献上の初見。伊勢大神宮寺・多度(たど)神宮寺・宇佐神宮弥勒(みろく)寺などは有名。明治維新の際廃止または分離された。
→関連項目河上神社神職神仏習合走湯山椿大神社

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神宮寺」の意味・わかりやすい解説

神宮寺
じんぐうじ

仏教の僧侶が神祇に奉仕するために,神社の境内などに建立された寺院。神社の祭祀が読経などの仏式でとり行われた。神願寺,神供寺,神宮院,別当寺,宮寺などともいう。神祇もまた仏教を歓迎するという思想によって,奈良時代から,鹿島,多度,二荒山,熱田,賀茂,宇佐八幡,伊勢大神宮などに神宮寺が建てられ,神仏習合思想の進展,さらには本地垂迹説の成立に伴い,9世紀以降になると気多,石清水,石上などの神社に相次いで神宮寺が現れ,やがて諸国の神社に神宮寺が設定されるにいたった。明治維新の排仏毀釈運動によって,あるいは廃止され,あるいは分離された。なお,興福寺と春日社,延暦寺と日吉社,高野山金剛峰寺と丹生社などは,寺院守護のために,寺域内の地主神などを祀るものであり,神宮寺とは異なる。 (→神仏習合 , 神仏判然令 , 廃仏毀釈 )  

神宮寺
じんぐうじ

秋田県中南部,大仙市中部にある旧神岡町の中心市街地。旧町名。 1955年北楢岡村と合体して神岡町となる。雄物川と,その支流の玉川との合流点にある交通の要地。古い宿駅で,河港として栄えた。南に神宮寺岳 (281m) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「神宮寺」の解説

神宮寺
じんぐうじ

神願寺・神護寺・神供寺とも。神仏習合思想にもとづき神に法味を献じるために建立された寺。多くは神社の域内にたてられ,社僧が住んだ。7世紀末から史料に現れ,早い例としては越前国気比(けひ)神宮寺,若狭国神願寺,伊勢国多度神宮寺などが知られる。のち宇佐八幡宮・石清水八幡宮・伊勢大神宮をはじめ各地の神社に併設された。神宮寺建立の背景には,はじめ仏法の力で神が業苦から救われるとの思想があったが,しだいに仏法によって神の威力を増すという思想も強まった。宗派的には天台宗・真言宗に属するものが多い。江戸末期まで続いたが,明治維新期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で多数の神宮寺が廃絶に追いこまれた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「神宮寺」の解説

神宮寺
じんぐうじ

神社に付属した寺院
宮寺 (みやでら) ・神供寺 (じんぐじ) ・神護寺ともいう。多くは神社の境内に建立された。神仏習合思想の現れで,すでに奈良初期に例がみられ,平安時代以後,全国の大社のほとんどに神宮寺があり,多くは天台・真言両宗に属した。明治初年の神仏分離令で分離・廃止。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「神宮寺」の解説

神宮寺

福井県小浜市にある天台宗の寺院。山号は霊応山、院号は神願院。本尊は薬師如来、千手観音。寺伝では714年創建の神願寺が起源とされる。1553年に朝倉義景が再建した本堂、鎌倉時代の仁王門などは国の重要文化財に指定。

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世界大百科事典(旧版)内の神宮寺の言及

【神岡[町]】より

…横手盆地の北西部にあり,雄物川が出羽山地を横断する先行谷の谷底平野にあたり,古くから水害に悩まされた。中心地の神宮寺は雄物川北岸にあり,古くは副川郷と呼ばれ,対岸の神宮寺岳には式内社副川神社があったと伝える。近世は羽州街道の宿駅で雄物川の河港でもあった。…

【勢和[村]】より

…ほかに林業も営まれ,シイタケ栽培も盛ん。先土器~弥生時代の遺跡が多く,丹生(にう)は,奈良時代から水銀の産地として知られた丹生神社とともにあり,丹生大師の名で有名な真言宗山階派の神宮寺や,重要文化財の《法然上人絵伝》を有する西導寺がある。村の北半分は香肌峡(かはだきよう)県立公園に含まれる。…

【社僧】より

神宮寺に住し仏事を修する僧侶。供僧(ぐそう),宮僧(くそう),神僧ともいう。…

【神仏習合】より

…日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。…

【別当寺】より

…神宮寺の一種で,神社の境内に建立され,供僧が祭祀・読経・加持祈禱をする一方,神社の管理経営を行った寺。本地垂迹の説が唱えられ,神仏習合思想が成立するにいたり,神社では仏教による祭祀が盛んに行われた。…

※「神宮寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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