防人(読み)サキモリ

デジタル大辞泉 「防人」の意味・読み・例文・類語

さき‐もり【防人】

《「さきもり」の意》古代、筑紫壱岐対馬つしまなど北九州の防備に当たった兵士。663年の白村江はくそんこうの戦い以後制度化され、初め諸国の兵士の中から3年交代で選ばれ、のちには東国出身者に限られるようになった。その後数度の改廃を経て、延喜(901~923)のころには有名無実となった。

ぼう‐じん〔バウ‐〕【防人】

中国代に辺境の防備にあたった兵。
さきもり」に同じ。

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精選版 日本国語大辞典 「防人」の意味・読み・例文・類語

さき‐もり【防人】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「崎守(さきもり)」の意 ) 奈良平安時代に辺境防備に当たった兵士。特に筑紫、壱岐、対馬など北九州を防衛した兵士で、諸国より徴発されたが、天平二年(七三〇)以後は東国の兵士をこれにあてた。任期は三年。毎年二月に兵員の三分の一が交代した。
    1. [初出の実例]「凡兵士向京者名衛士。守辺者名防人」(出典令義解(718)軍防)

せき‐もり【防人】

  1. 〘 名詞 〙さきもり(防人)
    1. [初出の実例]「初て京師(みさと)を脩め、畿内(うちつくに)の国の司、郡司関塞(せき)斥候(やかた)、防人(セキモリ)、駅(はい)馬、伝馬(つたへむま)を置く」(出典:日本書紀(720)孝徳二年正月(北野本訓))

さき‐むり【防人】

  1. 〘 名詞 〙 「さきもり(防人)」の上代東国方言。
    1. [初出の実例]「佐伎牟理(サキムリ)に発(た)たむ騒きに家の妹(いむ)がなるべき事を言はず来ぬかも」(出典:万葉集(8C後)二〇・四三六四)

ぼう‐じんバウ‥【防人】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 中国唐代に辺境を守った兵。
  3. 古代、九州地方海岸の警備にあたった兵士。さきもり。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「防人」の意味・わかりやすい解説

防人
さきもり

古代の兵役。「防人」の用例は、中国唐(とう)でみられるが、日本であえて「崎守(さきもり)」と訓(よ)むのは、大陸に面する北九州地方の崎々に配され、防衛にあたったからである。防人の初見は『日本書紀』の大化(たいか)2年(646)条であるが、大化前代にも「夷守(ひなもり)」「島守(しまもり)」などというそれに類したものが置かれていたらしい。防人が実際に制度化されたのは、663年(天智天皇2)白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅(しらぎ)軍に大敗してからである。令制(りょうせい)では、諸国から防人が難波津(なにわづ)に集められ、船で大宰府(だざいふ)に送られ、防人司(さきもりのつかさ)の統率下に入れられた。そして各地に配され、軍務に従事しつつ、空閑地を開墾したりして、食糧を自給していた。一般には3年で交替とされたが、年限を過ぎても帰郷が許されない者もいた。また、東国の兵士が任ぜられることが多かったのは『万葉集』の防人の歌(巻14、巻20)から知ることができる。737年(天平9)に諸国防人が廃止され、その帰郷の姿が天平(てんぴょう)10年度の正税帳(しょうぜいちょう)からうかがうことができ、「周防国(すおうのくに)正税帳」からは約1900人を数える。これに備前(びぜん)児島(こじま)に向かった者を加えて総勢約2300人前後となるが、これがほぼ防人の構成員であったとみなされる。東海道遠江(とおとうみ)、駿河(するが)、伊豆(いず)、甲斐(かい)、相模(さがみ)、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、東山道(とうさんどう)の信濃(しなの)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、武蔵(むさし)から東国防人は徴発されていたようである。その後、復活・改廃があり筑紫(つくし)の兵にゆだねるようになったが、延喜(えんぎ)(901~923)のころには有名無実となった。

[井上辰雄]

『岸俊男著「防人考」(『日本古代政治史研究』所収・1966・塙書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「防人」の意味・わかりやすい解説

防人 (さきもり)

日本古代の兵役の一つ。〈さきもり〉は崎守の意。律令制では21~60歳の男子は3年間の防人の軍役につく義務があった。ただし,実際には,防人の軍役は東海道,東山道地域の人々に限られていた。《万葉集》の防人歌は東国防人たちの歌であり,作者注記に国造丁,助丁,主帳丁,火長,丁などの言葉がみられることから,東国防人は旧国造(くにのみやつこ)軍の遺制を継承したものではないかと推測されている。防人の総数は約3000,その大半は筑紫地域,大宰府,壱岐,対馬に配置され,筑紫地域の内外の軍事情勢に活用された。防人の生活は且戦且耕のごとく60日間軍役につき,他は農業生活を営むものであった。重い甲冑で装わず刀剣弓箭を主とする軽便な装備で,弩を中心にした軍事拠点の兵力として用いられた。しかし東国防人の補給は難しく,いくどかの停止や復活をくりかえし,795年(延暦14)に防人司,防人は廃止され,ついに826年(天長3)には大宰府管内の兵士を廃し,選士・衛卒制に移行して,律令制の防人制は崩壊した。
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百科事典マイペディア 「防人」の意味・わかりやすい解説

防人【さきもり】

古代,北九州防衛のために配置された兵士(ひょうじ)。大化改新ごろまでの実態は不明。663年白村江の戦に敗れた後,戦備を強化するため大宰府を中心に壱岐(いき)・対馬(つしま)に強健な東国の兵士を当てた。律令制では軍団の兵士から選抜,3年交替とした。万葉集に東国の防人歌が収載されている。792年諸国の軍団を解体,795年壱岐・対馬を除いて大宰府の防人司も廃止,以後は現地の人民に防衛をゆだねた。
→関連項目壱岐島鹿島信仰万葉集

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「防人」の意味・わかりやすい解説

防人
さきもり

古代,九州の辺要の地の守備にあてられた兵士。防人の初見は大化2 (646) 年。令制では防人司に属した。防人は諸国から徴発され,3年交代で九州の防備にあてられた。手続は,国司が名簿を作成し,兵士を都へ送ると,都で兵部省の役人が検閲したのち,九州へ下し,防人司の役人が壱岐,対馬などに配置した。史料によると天平2 (730) 年諸国から徴集した防人を廃止,重ねて同9年諸国からの防人を本国に帰還させ,九州の兵士に守らせることにしたとある。さらに天平宝字1 (757) 年,東国の防人を徴することをやめ,九州の兵士をあてたが,天平神護2 (766) 年大宰府は東国の兵士を防人にあてることを申請している。以後,改訂を繰返したが,寛平6 (894) 年対馬の防人の記事が最後の所見。『万葉集』中の防人歌は,真情あふれているので有名。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「防人」の解説

防人
さきもり

古代に対外防衛のため,西海の辺境に配備された兵。白村江(はくそんこう)の敗戦後,664年に対馬・壱岐・筑紫においたのが,初期の整備とみられる。律令制が成立すると軍防令に防人制が規定され,軍団兵士が3年間遣わされるものとされた。出身地は全国均等ではなく,東国が多かった。737年(天平9)に筑紫の防人を停止したことがあるが,このとき約2000人が東国に帰郷している。その後,東国からの防人の復活もみられたが,大宰府の東国人派遣の要望に反して,政府は西海道出身者を配備する政策を進めた。795年(延暦14)壱岐・対馬以外の防人は廃止され,804年には壱岐の防人も廃止。以後,部分的復活もあったが,やがて消滅した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「防人」の解説

防人
さきもり

律令制において,九州警備に配置された兵士
諸国軍団の兵士から選び,兵部省の支配下に属し,現地では大宰府の管轄下に入った。3年交替で勤務。装備・往復食糧は自弁であった。730年東国兵士に限るようになり,10世紀前半まで続いた。『万葉集』におさめられた防人の歌は有名である。

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とっさの日本語便利帳 「防人」の解説

防人

七世紀半ばより、壱岐、対馬など九州北部防衛のため配属された兵士(ひょうじ)で「崎守」の意。任期は三年で、当初は東国、後に地方の兵士が送られ、大宰府の防人司の下、本土防衛にあたる一方、農業に従事した。

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