有海村(読み)あるみむら

日本歴史地名大系 「有海村」の解説

有海村
あるみむら

[現在地名]新城市有海

川路かわじ村・清井田きよいだ村の東、大海おおみ村の南の豊川の河岸段丘上にある。東は寒狭かんさ川から三輪みわ川との合流点を経て南は豊川に沿う。豊川を挟んで長篠ながしの(現南設楽郡鳳来町)に対し、天正三年(一五七五)の長篠城包囲の武田軍の陣地となった所である。寛永郷帳では「アリミ」と訓じている。「東郷村沿革誌」によると、中世は有海郷と称したが、天正一二年、有海村と喜多きた村とに分れたという。天保七年(一八三六)には合村している。慶長八年(一六〇三)から明治に至るまで旗本松平加賀右衛門家の所領。

長篠から大野おおの方面に向かうした街道あるいは中馬脇街道が寒狭川を渡り、また豊川を渡って乗本のりもと山吉田やまよしだ(現南設楽郡鳳来町)を経て金指かなさし(現静岡県)に至る交通上の要点であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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