木挽町八丁目(読み)こびきちようはつちようめ

日本歴史地名大系 「木挽町八丁目」の解説

木挽町八丁目
こびきちようはつちようめ

[現在地名]中央区銀座ぎんざ八丁目

明治五年(一八七二)に旧武家地を合せて起立。起立時の八丁目は木挽町五―七丁目の東裏を占め、東は築地川、南は汐留しおどめ川に限られる地域であった。同六年には南部は電信倉庫局の敷地となっている(明治七年東京大小区分絵図)。その後同一一年までの間に木挽町九丁目・同一〇丁目が分離し、八丁目は南端逓信省・鉄道局敷地辺りのみとなった。この八丁目地域は延宝年間(一六七三―八一)には越後高田藩松平氏(越前松平氏)屋敷・出羽山形藩(のち豊前中津藩)奥平氏屋敷。奥平氏の上屋敷は幕末まで変わらず、松平氏屋敷は享保年中(一七一六―三六)伊予宇和島藩伊達氏屋敷となり、その後いくつかに分けられ、幕末には越後新発田藩溝口氏中屋敷などとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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