日本大百科全書(ニッポニカ) 「奥平氏」の意味・わかりやすい解説
奥平氏
おくだいらうじ
徳川譜代大名(ふだいだいみょう)の一つ。伝承では具平(ともひら)親王の後裔(こうえい)赤松(あかまつ)氏が武蔵七党(むさししちとう)の児玉(こだま)氏に入婿(いりむこ)後、子孫が上野国(こうずけのくに)甘楽(かんら)郡奥平郷(群馬県高崎市吉井町下奥平)に住し奥平を称したことに始まり、室町前期ごろに貞俊(さだとし)が同地から三河国(みかわのくに)設楽(したら)郡作手(つくで)(愛知県新城(しんしろ)市)に移住したという。戦国期には同郡長篠(ながしの)・田峰(だみね)の菅沼(すがぬま)氏とともに山家三方衆(やまがさんぼうしゅう)とよばれ勢力を有した。同地域は遠江(とおとうみ)・信濃(しなの)両国に接し、貞昌(さだまさ)は今川氏に従ったが、貞能(さだよし)に至り徳川氏から一時武田氏へ、1573年(天正1)にはふたたび徳川氏に属した。このとき徳川家康は貞能(さだよし)・信昌(のぶまさ)父子に誓書を送り、長女亀姫(かめひめ)と信昌の縁組などを約し、武田氏に備えた。信昌は1575年長篠城を武田氏の攻撃から守りぬき、その後も戦功多く1590年に上野国小幡(おばた)3万石、1601年(慶長6)には美濃国(みののくに)加納(かのう)10万石を与えられた。以後子孫は数度の転封後、昌成(まさしげ)のときに豊前国(ぶぜんのくに)中津(なかつ)10万石に固定。また信昌の子のうち忠明(ただあきら)は家康の養子となり、松平と改姓し大名となった。
[久保田昌希]