新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「本多康穣」の解説 本多 康穣ホンダ ヤスシゲ 肩書膳所藩知事 生年月日天保6年12月6日(1835年) 出生地近江国膳所城内(滋賀県) 経歴膳所藩主の兄康融の養子となり、安政3年14代目藩主。京都御所警固を命じられる。慶応元年将軍の膳所城宿泊が中止になると、藩内の尊攘派藩士を処刑して幕府への忠誠を示そうとした。明治2年膳所藩知事となり、4年廃藩置県により免職。17年子爵となり、35年神道管長に任じられた。 没年月日明治45年2月28日 出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多康穣」の解説 本多康穣 ほんだ-やすしげ 1836*-1912 幕末-明治時代の大名,華族。天保(てんぽう)6年12月6日生まれ。本多康禎(やすつぐ)の子。兄康融(やすあき)の養子となり,安政3年近江(おうみ)(滋賀県)膳所(ぜぜ)藩主本多家14代。京都御所警固にあたる。慶応元年将軍徳川家茂(いえもち)の膳所城宿泊が中止となった事件で,勤王派藩士11人を処刑した。維新後子爵,神道管長。明治45年2月28日死去。78歳。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by