日本大百科全書(ニッポニカ) 「李きょう」の意味・わかりやすい解説
李きょう
りきょう
(1659―1733)
中国、清(しん)代の儒者。字(あざな)は剛主(ごうしゅ)。号は恕谷(じょこく)。河北省(直隷(ちょくれい))蠡(れい)県の人。康煕(こうき)年間(1662~1722)の挙人(きょじん)。通州学正の官についたが、病気のため告帰した。兵法を王餘佑(おうよゆう)(1615―1684)に、射(しゃ)を趙錫之(ちょうしゃくし)、郭金城(かくきんじょう)に、書を彭通(ほうつう)に、数を劉見田(りゅうけんでん)に、琴(こと)を張而素(ちょうじそ)に学び、のちに楽律を毛奇齢(もうきれい)に学ぶ。博学にして文辞巧妙、五経六芸(りくげい)(礼楽(がく)射御(ぎょ)書数の6種の技芸)に明通した。父明性(めいせい)の命により、弱冠にして顔元(がんげん)に師事し、以後顔元の学を奉じてその宣揚に大いに力を尽くし、毛奇齢、方苞(ほうほう)らと論争した。李きょう(りきょう)の学は経世を第一義とし、躬行実用(きゅうこうじつよう)を旨として、礼楽兵農の実習運用に重点を置く。経義の解釈も多く宋(そう)儒に異をたてたが、大略顔元の学を祖述したものである。著書に『小学稽業(けいぎょう)』『大学弁業』『聖経学規纂(きさん)』『習斎年譜』など多数があり、「顔李叢書(がんりそうしょ)」に収録されている。
[山口三夫 2016年3月18日]