日本大百科全書(ニッポニカ) 「顔元」の意味・わかりやすい解説
顔元
がんげん
(1635―1704)
中国、清(しん)代の儒者。字(あざな)は渾然(こんぜん)、または易直。号は思古人、のち習斎と改める。河北省(直隷(ちょくれい))博野(はくや)県の人。顔李(がんり)学派の祖。順治(じゅんち)年間(1644~1661)の諸生。初め陸王の学を学んだが、その空疎(くうそ)であるのを嫌い、ついで程朱の学を信奉した。養祖母の死に際し、朱子家礼に基づいて喪礼行事を行ったが、人情にそぐわぬ点を多く発見し、これを契機に程朱の学に反対する立場を確立した。晩年、直隷肥郷(ひきょう)の漳南(しょうなん)書院に主講となり、文事、武備、経史、芸能の課を設け、六芸(りくげい)(礼・楽(がく)・射・御(ぎょ)・書・数の6種の技芸)を習い世務を講じ、国家の用に備えることを旨とした。その学は躬行(きゅうこう)実践、経世治用(けいせいちよう)を第一義とし、堅忍刻苦を教旨とする。著書に「存性」「存学」「存治」「存人」の4篇(へん)(『四存篇』)があり、とりわけ「存性」「存学」2篇は顔元の思想的立場をよく表している。
[山口三夫 2016年3月18日]